妻と愛人と家族

家政婦の引退宣言

「家政婦の引退宣言」

山田光一は、60歳の誕生日に定年退職を迎えた。退職金2,800万円、貯金4,000万円。彼は長年勤めた会社を去り、これからは妻の京子と静かな老後を過ごすことを夢見ていた。職場から贈られた大きな花束を抱え、誇らしげに家路を急ぐ光一。その胸中には、これまでのサラリーマン人生を支えてくれた京子への感謝が溢れていた。

「今夜は二人で美味しいワインでも開けて、ゆっくり語り合おう。」そう考えながら、光一は玄関のドアを開けた。

家の中は静かだった。京子はリビングで何かを片付けている様子だ。光一は笑顔で花束を差し出した。

「京子、俺、今日で定年だ。今までありがとう。これからは二人でゆっくり過ごそう。」

京子は花束を受け取り、ほほえんだ。「おつかれさまでした。」その言葉に、光一は心が温まった。だが、次の瞬間、京子の口から信じられない言葉が飛び出した。

「この家の家政婦はこれで引退ね。」

その一言で、光一の頭は真っ白になった。京子の表情は穏やかで、まるで何事もないかのようだったが、その言葉には明確な意思が込められていた。

光一はただ唖然として、何も言えなかった。京子が「家政婦」として自分を見ていたのか？35年間の結婚生活、特に子供が生まれてからの30年間、光一は仕事に没頭し、家庭を京子に任せていた。京子は、光一が仕事に打ち込むのを理解し、家庭をしっかりと守ってくれていると思っていた。だからこそ、その「家政婦」という言葉は、光一にとってあまりにも衝撃的だった。

京子は続けて語った。「光一さん、私たちの結婚生活は長かったわね。でも、私はずっと家の中で働いていたように感じていたの。あなたは仕事に行き、私は家のことを全部任されていた。それが家政婦じゃなければ、何なの？」

光一は反論しようとしたが、言葉が出なかった。京子の言うことは、ある意味で正しかった。彼は家庭を支えてくれる京子に甘えていた。仕事が忙しいと言い訳をし、家のことは京子に任せっきりだった。それを当然のことだと思っていた自分に、今、強烈な自己嫌悪を覚えた。

「京子、すまない。俺は、君が本当に幸せだと思っていた。でも、それは俺の勝手な思い込みだったんだな。」

京子は少しだけ微笑んだが、その瞳には疲労と寂しさが漂っていた。「光一さん、これからの人生は、お互いが本当の意味で支え合って生きていきましょう。もう私は家政婦じゃない。あなたの妻として、対等なパートナーでありたいの。」

その言葉に、光一は初めて本当に京子の気持ちを理解した。これまでの結婚生活を振り返り、彼は京子に対して深い感謝とともに、無意識に負わせていた重荷に気付いたのだ。

「京子、本当にありがとう。これからは、君が望む通りの人生を一緒に歩んでいこう。」

光一は心からそう誓った。そして、その夜、彼らは長い間閉じ込めていた感情を互いに打ち明け、未来を見据えた新たな絆を築いた。

彼らの家には、もう家政婦はいない。そこにあるのは、互いを尊重し合う二人の人生が始まる場所だった。


翌朝、光一は早く目が覚めた。これからの生活がどう変わるのか、どんなふうに京子と過ごしていくのか、胸に期待と不安が交錯していた。寝室を出ると、すでに起きていた京子が台所で朝食を準備していた。光一はその背中を見つめながら、ふと、昨日の会話を思い出した。

「京子、今日は俺が朝食を作るよ。」

そう言って光一は台所に立った。京子は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでその場を譲った。光一は不器用ながらも、卵を割り、トーストを焼き、コーヒーを淹れた。それは慣れない手つきで、見ている京子を少し笑わせたが、光一にとっては新たな一歩だった。

二人で朝食を食べながら、光一は言った。「これからは、家のことも俺が手伝うよ。長い間、君に任せきりだった。これからは、二人で一緒にやっていこう。」

京子は光一の言葉に少し驚いたが、優しく頷いた。「ありがとう、光一さん。でも、無理をしないでね。お互いができる範囲で協力し合えば、それで十分よ。」

その日から、二人の生活は少しずつ変わっていった。光一は積極的に家事に参加するようになり、掃除や洗濯、料理も手伝うようになった。最初は不慣れでぎこちなかったが、少しずつコツを掴んでいき、京子と一緒に家のことをこなす時間が増えていった。

また、光一は京子の趣味にも興味を持ち始めた。京子が長年続けているフラワーアレンジメントや料理教室にも顔を出し、二人で一緒に楽しむことを心掛けた。これまで仕事一筋だった光一にとって、家庭を大切にすることが新鮮で、何より京子と共に過ごす時間が愛おしく感じられた。

一方で、京子も少しずつ自分の時間を持つようになった。これまでは家のことに縛られていたが、光一が協力してくれることで、自分の趣味や友人との時間を楽しむ余裕が生まれた。京子は友人たちとランチに出かけたり、旅行を計画したりして、新しい生活を満喫していた。

ある日、光一は京子に提案した。「京子、二人で一緒に旅行に行かないか？今まで忙しくて、あまり遠出できなかったけど、これからは二人でいろんなところを巡りたいんだ。」

京子は少し考えてから、嬉しそうに頷いた。「そうね、それもいいかもしれないわ。光一さんと一緒に新しい場所を訪れるの、楽しみだわ。」

こうして、光一と京子は二人で初めての旅行を計画した。目的地は京都。秋の紅葉が美しい時期を選び、寺社仏閣を巡り、湯豆腐や京懐石料理を楽しむプランを立てた。京子は旅行の準備を進めながら、光一との新しい生活が始まったことを実感していた。

旅行の日、二人は電車に乗り、京都へと向かった。窓から見える風景に感動し、互いに微笑み合う二人。光一は心の中で、これからも京子を大切にしようと強く誓った。

「これからは、二人でどこまでも一緒に歩んでいこう。」

京子もまた、光一の隣で、これからの新しい生活に期待を膨らませていた。そして、二人はゆっくりと、穏やかな時間を共に過ごしていくのであった。

光一と京子の老後は、ただの「引退」ではなく、新たな「始まり」だった。彼らは互いを支え合い、これまでの絆をさらに深めていく。それが、二人にとっての本当の幸せであり、人生の次なる章だった。