妻と愛人と家族

十六夜の香り

十六夜の香り

窓へ寄って見ると、早春の暖かい夜気が面をなで、噎せるほど丁字の花の香が匂って来た。植込の茂み越しに、奥座敷の灯が明あかと見え、なにか賑やかに笑いあう声が聞える。この季節のならいで、薄雲のかかった空に十六夜のおぼろ月があった。

咲子は、縁側に腰掛け、静かに夜の景色を楽しんでいた。昼間の喧騒から離れ、一人きりで過ごすこの時間が、彼女にとって何よりの贅沢だった。家族は奥座敷で宴を楽しんでいる様子で、その声が時折風に乗って耳に届いた。

「今年もまた、この香りが戻ってきたわね」と咲子は独り言を呟いた。丁字の花が咲くたびに、彼女は亡き夫との思い出が蘇る。彼と初めて出会ったのも、こんな春の夜だった。

あの夜、咲子は友人の勧めで、初めて参加した社交パーティーに出席していた。人見知りの激しい彼女は、いつもなら避けていたが、友人の熱心な誘いに負けた。会場には、美しいドレスに身を包んだ人々が溢れ、華やかな音楽が流れていた。咲子は、周りの喧騒に圧倒されながらも、心の中で期待と不安が入り混じる複雑な感情を抱いていた。

その時、一人の男性が彼女に声をかけた。「こんばんは、ここは初めてですか？」彼の優しい笑顔と穏やかな声に、咲子は自然と緊張が解けた。その男性こそが、後に彼女の夫となる俊一だった。

俊一は、咲子にとってまるで光のような存在だった。彼の温かさと包容力に惹かれ、二人はすぐに親しくなった。彼との時間は、咲子にとって宝物だった。結婚してからも、俊一は変わらず彼女を大切にし、毎年春になると丁字の花を贈ってくれた。

しかし、数年前に俊一は病でこの世を去った。彼のいない日々がどれほど寂しく、辛かったか。それでも、咲子は彼の思い出と共に前を向いて生きることを決意した。毎年春になると、咲子は庭に丁字の花を植え、彼の存在を感じることで心の安らぎを得ていた。

今夜もまた、丁字の花の香りが風に乗って彼女のもとへ届いた。咲子は目を閉じ、俊一との思い出を静かに反芻した。彼の笑顔、優しい声、そして温かい手の感触が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。

その時、ふと風が止み、周囲が静まり返った。咲子は目を開け、夜空を見上げた。薄雲のかかった十六夜の月が、淡い光を放ちながら彼女を見下ろしていた。その光景は、まるで俊一が彼女を見守っているかのように感じられた。

「俊一さん、あなたは今も私のそばにいるのね」と咲子はつぶやいた。彼女は再び目を閉じ、心の中で彼に語りかけた。「私はこれからも、あなたとの思い出を胸に生きていきます。この丁字の香りと共に。」

その時、再び風が吹き、丁字の花の香りが一層強くなった。咲子は深呼吸をし、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。彼女の心には、安らぎと希望が広がっていた。俊一との思い出は、彼女にとって永遠に輝き続ける宝物だった。

咲子は立ち上がり、奥座敷の賑やかな声が再び耳に届いた。彼女は微笑みながら家の中に戻り、家族と共に過ごす時間を楽しむことにした。俊一との思い出が彼女に力を与え、これからも前向きに生きていくことを心に誓って。

そして、十六夜の月は変わらぬ光を放ちながら、彼女を静かに見守り続けていた。