妻と愛人と家族

愛人になれなかったわたし

愛人になれなかったわたし

東京の夜は、時折心にぽっかりと穴を開けるような孤独感を運んでくる。街のネオンが煌めく中、私は一人でバーのカウンターに座り、グラスの中の赤ワインを揺らしていた。ここに来るのは何度目だろう。日常の喧騒から逃れるための、私だけの小さな避難場所だ。

その夜も、いつもと同じように一人で飲んでいると、ふと隣に座った男性が話しかけてきた。彼の名前は斉藤翔。整った顔立ちと柔らかい笑顔が印象的で、すぐにその魅力に引き込まれた。私たちは自然と話が弾み、気づけば閉店まで一緒に時間を過ごしていた。

翔さんは大手企業のエリートサラリーマンで、仕事に忙殺される日々を送っていると話してくれた。私も彼に共感し、自分の仕事の悩みや日常の些細な出来事を話した。彼の話を聞いていると、不思議と心が軽くなるような気がした。そんな彼との出会いは、私にとって一筋の光だった。

次第に私たちは頻繁に会うようになり、特別な関係が築かれていった。しかし、ある日、翔さんがぽつりと告げた。「実は、僕には妻がいるんだ。」その言葉は、私の心に深い傷を残した。

彼のことが好きだった。でも、彼の妻の存在を知ってから、私の心は揺れ動いた。倫理的な葛藤と、自分の感情との間で、どうすればいいのか分からなくなった。

ある夜、翔さんとバーで会った後、彼は私の手を握りしめて言った。「君のことが本当に好きだ。でも、家族を捨てることはできないんだ。」その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて止まらなかった。

私は彼にとっての「愛人」にはなれないと決心した。どれだけ彼のことを愛していても、その関係は私自身を傷つけるだけだと気づいたからだ。

翌日、翔さんに最後のメッセージを送った。「あなたのことを愛していました。でも、私はあなたの愛人にはなれません。どうか、家族を大切にしてください。」そして、彼の連絡先を削除し、心の中で彼との思い出に別れを告げた。

それから数か月が経ち、私は少しずつ日常を取り戻していった。新しい仕事に打ち込み、新しい友人たちと楽しい時間を過ごすことで、心の傷も癒されていった。

ある日、久しぶりにバーを訪れた。あの夜と同じカウンター席に座り、グラスの中のワインを眺めていると、不意に声をかけられた。「お久しぶりですね。」振り返ると、そこには懐かしい顔があった。

翔さんだった。彼もまた、変わらずあの柔らかい笑顔を浮かべていた。彼の姿を見て、私は心の中で小さな波が立つのを感じた。

「元気でしたか？」と彼が尋ねると、私は微笑んで答えた。「ええ、おかげさまで。」それ以上の言葉は不要だった。お互いの気持ちを察し、過去のことは胸の中にそっとしまい込んだ。

その後、翔さんとは二度と会うことはなかった。彼との思い出は私の心の中に残り続けるが、それはもう過去の一部に過ぎない。私は新しい未来に向かって歩き始めていた。

時間が経つにつれ、私は自分自身に問いかけることがあった。もしあの時、彼の愛人になることを選んでいたら、どうなっていただろうか。答えは見つからないが、一つだけ確かなことがある。それは、私が自分自身の尊厳を守るために、正しい選択をしたということ。

愛とは時に複雑で、答えの見つからない問いを投げかけるものだ。しかし、その中で自分自身を見失わず、正しい道を選ぶことが大切だと私は学んだ。

そして今、私は新たな一歩を踏み出し、未来に向かって進んでいる。過去の出来事は私を強くし、成長させてくれた。私は再び、幸せを見つけることができると信じている。