お金がない

春秋花壇

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抜け出せない網

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「抜け出せない網」

京都市の大学生、佐円昌紀は、10月末の冷たい風が吹き始めた夜、母とともに警察署を訪れた。自分が抱える恐怖と後悔を何とかしたくて、佐円は母の手を握りしめ、意を決して警察のドアを開けた。

「実は、闇バイトに応募してしまって……」

佐円は、気まずさと後悔の入り混じった表情で警察官に事情を説明した。通信アプリ「テレグラム」で見つけた「簡単に稼げる」という謳い文句に惹かれ、応募してしまったのだ。初めは軽い気持ちで興味を持っただけだったが、すぐに自分が思い描いていたようなアルバイトではないことに気付かされた。

「実行役をやれ、と指示されました。でも、それが違法な詐欺行為だと知って、断ったんです」

その場にいた警察官たちも神妙な顔をして聞いていた。佐円が詐欺の手口や依頼内容を話し終えると、一人の警察官が重い口調で言った。

「断って正解だ。しかし、やはり一度関わってしまうと逃げ出すのは難しい場合が多い」

彼は佐円に対して、できる限りの安全対策を講じた。まずはアプリを消去し、関わりを断つよう指導したが、佐円の心にはどこか割り切れない不安が残っていた。「逃げられないぞ」という脅迫メッセージが、頭の片隅にこびりついて離れなかったのだ。

それでも、佐円は「もう大丈夫だろう」と一度は自分に言い聞かせて家路に着いた。しかし、数日後、再び闇バイトの誘惑が彼の目の前に現れた。今度は別の通信アプリ「シグナル」を通して届いたメッセージだった。今度の募集は直接的な「実行役」ではなく、単純な「作業」のようなニュアンスだった。

「報酬は高いし、直接の詐欺じゃないのかも」

そんな甘い考えが、彼の心を少しずつほぐしていった。そして、次第に自分を追い詰めていた罪悪感が薄れていくのを感じながら、彼は再び闇の世界へと手を伸ばしてしまった。

**

10月30日の夜、佐円は東京・三鷹市の住宅街に立っていた。現場の住宅は薄暗い街灯にぼんやりと照らされ、静寂が支配していた。背後には人の気配もなく、周囲には誰もいない。彼は冷たい汗をかきながら指示された住所を確認し、ゆっくりと門をくぐった。

「この家に入って、金を持ち出せばいい。ただの泥棒だ、暴力なんて必要ないはずだ……」

佐円は自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。だが、いざ玄関に手をかけた瞬間、静寂を切り裂くように家の中で物音がした。家主が気配に気づいたのだ。

「誰だ!」

突然の問いかけに、佐円は心臓が凍りついた。引き返すべきか、一瞬迷ったが、体は勝手に動き出し、家の中に足を踏み入れてしまった。パニック状態の中で彼は、見知らぬ男性と目が合った。その瞬間、脳裏に「逃げられないぞ」という言葉がフラッシュバックし、彼の中に恐怖と焦りが生じた。

佐円はとっさに男性の首を掴んだ。衝動的に彼を押さえつけ、暴力で何とかしようとしたのだ。だが、男性は必死に抵抗し、もみ合いになった末、佐円は恐怖のあまり何も持ち出せぬまま現場を後にするしかなかった。

**

その翌朝、彼は警察に逮捕された。事件の経緯が明らかになるにつれて、彼の選んだ道がどれだけ危険なものだったのかが、はっきりと浮かび上がってきた。

取り調べ室での彼は、まるで呆然としたような顔をしていた。自分のしてしまったこと、そこに至るまでの選択を悔やむ思いが心を占めていた。警察官に「なぜ、やめられなかったのか?」と問われ、彼は言葉を失った。

「逃げられない」という脅迫の言葉が、彼を縛り続けた。だが同時に、自分の中にある弱さと、目先の報酬に対する甘い考えがあったことも否定できなかった。彼は一度警察に助けを求めたにもかかわらず、自ら再び闇の世界に戻ってしまった。彼の中で繰り返される「戻るべきだった」「なぜ警察を信じられなかったのか」という自己嫌悪が、彼をさらに深い苦しみへと押し込めていた。

その後、彼の事件はメディアで取り上げられ、世間は「闇バイトの危険性」について一気に注目を集めることになった。闇の世界は、しっかりとした道を歩んでいたはずの若者たちの人生をも簡単に狂わせる力を持っている。そして佐円がその一例となってしまったことは、皮肉以外の何物でもなかった。

だが、取り調べが終わった後、彼を見送る母の姿を見た瞬間、佐円は涙をこぼした。「母と一緒に警察に相談し、もう一度人生をやり直そうと思っていたのに……」その無念の思いが、佐円の表情に浮かんでいた。

後悔と罪悪感に苛まれながらも、彼の頭の中には、母とともに警察署を訪れたあの日の記憶が、消えぬ痛みとともに刻まれていた。それは、人生の分かれ道であり、かつての彼にとって、戻れない道だったのかもしれない。
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