お金がない

春秋花壇

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お金がないから蟹工船に乗ってみた

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「お金がないから蟹工船に乗ってみた」

俺は、何度目かのハローワークからの帰り道、ぼんやりと空を見上げていた。財布の中には千円札が一枚と小銭だけ。家賃は先月から滞納していて、携帯電話の料金も未払いだ。生活費は限界だし、これ以上の借金も無理だとわかっていた。

「どうすりゃいいんだ…」

どん底の気分で歩いていると、ふと、目に飛び込んできた一枚の求人チラシ。真っ赤な文字で「蟹工船乗組員募集」と書かれている。蟹工船――その言葉が頭の中でぐるぐると回った。俺は正直、蟹工船なんてものが実在するのかどうかさえ知らなかった。ただ、昔読んだ小説の中で劣悪な環境で働く男たちの姿が描かれていたのを思い出した。

「蟹工船…これって本当にあるのか?」

チラシを手に取ると、そこには「高収入」「経験不問」「短期集中」と、今の俺にとって魅力的な言葉が並んでいた。詳細を読み進めると、三ヶ月の海上勤務でまとまった金が手に入るらしい。それに食費や住む場所も提供されるという。金がない俺にとっては、まさに最後の手段だった。

「行ってみるか…」俺はチラシを握りしめ、重い足取りで家に戻った。

数日後、俺は港に立っていた。蟹工船は巨大な鉄の塊のように感じられ、その威圧感に思わず足がすくんだ。働き始める前から、すでに何かがおかしいと感じたが、俺には選択肢がなかった。

「これに乗ったら、本当に金が稼げるんだろうか…」

その疑念を振り払うように、俺は船に乗り込んだ。船内は狭く、薄暗く、油のにおいが漂っていた。案内された部屋は二段ベッドがいくつも並んだ共同生活スペースで、プライバシーなどというものは一切ない。だが、今の俺にとっては、屋根があるだけでも十分だった。

初日は特に何もなかった。仕事の説明や注意事項を受け、明日からの作業に備えて早めに就寝した。しかし、翌日から地獄のような日々が始まるとは、その時の俺には想像すらできなかった。

翌朝4時、耳をつんざくようなサイレンで叩き起こされた。寝ぼけたままデッキに集合すると、船長が声を張り上げる。「今日はフル操業だ!時間は関係ない。蟹が取れる限り続けるぞ!」

俺は震える寒さの中、作業服を着込み、重い足取りで作業場に向かった。そこで待ち受けていたのは、果てしなく続く蟹の選別作業だった。次々と網にかかった蟹を仕分けし、傷ついたものやサイズが合わないものを捨てていく。海水と蟹の生臭さが混ざり合い、手は冷たくしびれ、腰は痛み、次第に体力が奪われていった。

「これが、俺の選んだ道か…」

船内では、作業の合間に食事を摂ることができたが、それも決して豪華なものではない。冷えたご飯と、簡素な味噌汁、少量のおかず。空腹は満たされるが、心は虚しさでいっぱいだった。夜になると、ヘトヘトに疲れ果てた体をベッドに投げ出し、ただ眠るだけ。そんな日々が続いた。

一週間が過ぎた頃、俺は限界を感じ始めていた。体力的にも精神的にも追い詰められていたのだ。蟹工船は想像以上に過酷で、働いても働いても終わりが見えない。眠る時間もろくに取れず、疲労が蓄積するばかりだった。乗組員の中には不満を口にする者もいたが、船長や上司たちは容赦がない。

「文句があるなら海に放り込むぞ!」そんな脅しを受け、誰もが黙り込んだ。

ある夜、ふと目を覚ますと、隣のベッドに横たわっていた若い乗組員がいないことに気づいた。彼は新人で、俺と同じように金に困って蟹工船に乗り込んできた男だった。彼の姿が見えないことに気づき、嫌な予感がした。

デッキに出ると、彼は暗い海を見つめて立っていた。寒風に吹かれながら、震える背中を俺はただ見つめた。

「おい、大丈夫か?」

声をかけると、彼は振り返った。その顔は疲れ切っていて、まるで生気が抜けたかのようだった。

「もう無理だよ…こんなの耐えられない」

彼の言葉は、まるで自分の心の声のように聞こえた。俺も、同じような気持ちだった。金のためにここまで自分を追い込む意味があるのか。このままじゃ、俺たちはただの「使い捨て」なんじゃないか――そんな思いが頭をよぎった。

だが、俺は彼に何も言えなかった。自分自身の答えも見つからないまま、俺たちはただその場に立ち尽くした。

それから数週間が経ち、俺はようやく陸に戻る日を迎えた。身体はボロボロで、心も疲れ切っていたが、手には少なくない報酬が握られていた。だが、喜びはなかった。ただ一つ、俺の中で確信に変わったのは、「金を得るために、自分のすべてを犠牲にすることは、決して幸せではない」ということだ。

蟹工船で得た金で借金を返し、最低限の生活は維持できるだろう。しかし、あの苛酷な労働環境で失った時間や、心の傷は簡単には癒えない。金は重要だ。だが、それ以上に大切なものがあることに気づいたのは、あの寒風に吹かれた夜の出来事のおかげだった。

俺は、もう二度と蟹工船には乗らないと心に誓った。そして、これからは金に追われる生き方ではなく、自分にとって本当に大切なものを見つけるために歩み出そうと決意した。

金に困ることは、誰にでもあるかもしれない。だが、その先にある選択肢を誤らないために、俺たちはもっと大切なものを見極める力を持つべきなのかもしれない。そう、俺は思う。

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