お金がない

仮想通貨の罠

「仮想通貨の罠」

兵庫県加古郡の会社員、56歳の田中和也は、静かな日常を送っていた。彼の生活は単調で、会社と家を往復するだけの日々。子供たちはもう独立し、妻とは冷え切った関係。そんな中で、彼は刺激を求めるようにSNSに目を向けるようになっていた。

ある日、和也はSNSで一人の女性からメッセージを受け取った。彼女の名前は「ミサキ」と名乗っており、プロフィール写真には若くて知的な女性が微笑んでいる。最初は他愛もない会話から始まった。仕事の話や趣味の話、そして徐々に投資の話へと話題が移っていった。

「投資で利益を得るのは簡単。私を先生だと思ってください」

ミサキはそう言い、仮想通貨を使った投資の話を和也に持ちかけた。和也は最初こそ警戒していたものの、彼女の話は巧妙で、論理的で説得力があった。彼女は「最近の成功事例」を写真やグラフで示し、どれも驚くほどの利益を上げているように見えた。

「これがチャンスだ。今まで味わえなかった豊かな生活が手に入るかもしれない」

和也は胸の内でそう思い始めていた。毎日の仕事に追われ、満たされることのなかった自分の人生が、これで変わるかもしれない。さらに彼の心を動かしたのは、ミサキの親身な態度だった。彼女はただのビジネスではなく、和也自身を気にかけているように見えた。

「あなたならきっと成功するわ。一歩踏み出す勇気が必要なのよ」

ミサキの言葉に励まされ、和也はついに決断を下した。彼は仮想通貨を使ってミサキが指定するアドレスに送金を始めた。最初は少額だったが、投資アプリの画面に利益が出ている様子が表示されるたびに、彼は次第に金額を増やしていった。

8月13日から10月9日の間、彼は14回にわたって仮想通貨を送り続け、最終的には1970万円相当の金額に達した。投資アプリ上では利益が順調に増えているかのように見えていた。和也はこれで新しい人生が始まると確信し、出金を試みることにした。

しかし、出金手続きを進めようとすると、アプリは反応せず、ミサキからの連絡も途絶えがちになった。不安が胸をよぎる中、彼は何度もメッセージを送り、出金を試みたが、結果は同じだった。焦りが募り、彼はとうとう県警加古川署に相談することを決断した。

警察署に出向いた和也は、自分が詐欺に遭ったのではないかという疑念を告げた。担当の警察官は、彼の話を聞き終えると静かに頷き、「これは典型的な投資詐欺の手口です」と説明した。その言葉に、和也は思わず目の前が真っ暗になるような気がした。

「こんなことが自分に起こるなんて……」

和也は自分が信じてきたミサキの言葉がすべて虚構であったことに、深いショックを受けた。これまでのやりとり、彼女の優しい言葉、親身な態度――すべてが嘘だったと悟ると、彼の胸には言いようのない怒りと虚しさが広がった。

「なぜ気づけなかったのか？ なぜあんなにも簡単に信じてしまったのか？」

警察の調査が進む中、和也は何度も自問した。彼は騙されやすいタイプではなかったはずだ。人生経験も豊富で、それなりに物事を見極める目を持っていると思っていた。しかし、孤独と欲望、そして誰かに認められたいという思いが彼を盲目にしてしまったのだ。

数日後、警察からの電話があったが、捜査はまだ進展していないとのことだった。和也の1970万円は、仮想通貨の特性上、追跡が困難で、戻ってくる可能性は極めて低いという。

「すべてが終わってしまった」

和也は自宅の居間で、一人静かに座っていた。彼の前には、投資アプリの画面が虚しく点滅している。そこにはもう、あの利益が膨れ上がるグラフも、ミサキの励ましのメッセージも表示されることはなかった。ただ、虚ろな数字と、消えた1970万円の記録だけが残っていた。

彼は手元のスマホを見つめながら、深いため息をついた。信じた相手が、実は自分を裏切っていたという事実は、金銭以上に彼の心を打ちのめしていた。

「もう、誰も信じられない……」

そう呟いた和也は、静かにスマホの電源を切った。そして、彼の心の中で何かが壊れた音が、静かに響いていた。

終わり