お金がない

春秋花壇

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ニンベン師

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ニンベン師

昭和の終わり頃、東京の下町に生まれ育った坂口浩二は、どこにでもいるような子供だった。父は小さな町工場を営んでおり、母は専業主婦。特別裕福ではないが、家族と過ごす時間は彼にとって何よりも大切なものだった。しかし、浩二が中学生の時、父の工場が倒産した。家庭は一気に困窮し、父は借金取りに追われる日々を送るようになった。

ある日、浩二は偶然にも地元の暴力団関係者に出会うこととなる。その男、片山という名の中年男は、スーツ姿で周囲からは一見普通のビジネスマンに見えた。しかし、彼の言葉や振る舞いには一種の圧力があり、浩二は彼の存在感に圧倒された。片山は浩二の家族の状況を知り、仕事を紹介すると持ちかけてきた。

「お前、手先は器用だろ?うちで少し仕事してみないか?」

片山が言う「仕事」とは、偽造書類の作成だった。浩二はそれまで、ただの手書きのカリカチュアや漫画を描くのが趣味で、何か特別な技術を持っていると思っていなかったが、片山は彼の細かい手作業を評価し、ニンベン師としての才能を見出したのだ。

当初、浩二はその仕事が犯罪に加担するものであることを理解していなかった。父の借金を返すための手段としか思っていなかったのだ。しかし、片山の指示で本物そっくりの印鑑やパスポート、住民票などを次々と作り上げるうちに、浩二は次第にその世界に引き込まれていった。彼は自分の技術を磨き、「職人」としての誇りさえ持つようになっていった。

昭和の時代、暴力団は裏社会の経済を回すために、土地の売買や企業買収に関わる書類を偽造する必要があった。浩二のようなニンベン師は、彼らの活動に不可欠な存在だった。最初は単純な住民票の偽造から始まったが、次第に本物そっくりの印鑑証明や土地登記簿まで手がけるようになった。浩二は、これがただの「仕事」だと自分に言い聞かせていた。

しかし、ある日、重大な事件が起こった。暴力団が関与した土地の売買で、浩二が偽造した書類が元で、無実の家族が家を失うことになったのだ。そのニュースを聞いた時、彼は初めて自分が何をしていたのかを真に理解した。彼の偽造によって、何の罪もない人々が生活の基盤を失い、人生が大きく狂わされていたのだ。

それでも、浩二は抜け出せなかった。片山とのつながり、そして暴力団の威圧的な存在が彼の生活を支配していた。彼の罪悪感は次第に麻痺していき、やがて感情が鈍くなっていった。彼は「これは自分の人生なのだ」と諦め、ただ目の前の「仕事」をこなすだけの日々を送るようになった。

時が経ち、平成が始まり、社会がデジタル化していく中で、ニンベン師たちの需要は次第に薄れていった。書類の偽造が電子的なセキュリティによって難しくなり、暴力団も新しい手口を模索するようになった。浩二は仕事を失い、かつての仲間たちも次々と姿を消していった。

ある日、浩二は街を歩いていると、若者たちがパソコンやスマートフォンを使っている光景を目にした。彼は、かつての自分の手作業がもはや過去の遺物であることを痛感し、深い孤独感に襲われた。

「俺は、何のために生きてきたんだ…?」

そんな風に自問自答する日々が続いた。やがて浩二は、ある決意を固めた。彼は自ら警察に出頭し、これまでの罪を全て告白することを決意したのだ。自分が壊したものを、少しでも償うために。人生の大半を裏社会に捧げてきた男の最後の選択だった。

出頭した浩二の証言は、多くの裏社会の犯罪を暴露する手がかりとなり、地面師やニンベン師の暗躍が次第に明るみに出た。彼が失ったものは取り戻せなかったが、彼の決断は少なくとも、未来の被害者を救う一歩となった。

こうして、昭和に活躍した「職人」は、静かにその幕を閉じた。
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