お金がない

春秋花壇

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お金がない

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「お金がない」

田村直樹は、無精髭を撫でながら銀行の明細書を睨んでいた。残高はもう、たったの800円。家賃はもちろん、今月の食費さえどうにもならない。35歳、無職。何をやってもうまくいかず、最後に残ったのは「お金がない」という現実だけだった。

それでも、生活は続く。家主からの催促の電話は日々鳴り響き、何度も留守電にメッセージが残されていた。「今月中に払わないと、出て行ってもらいますよ」。だが、田村にはもう誰かに頼れるような友人も家族もいなかった。彼は孤独で、そして無力だった。

ある夜、彼は自室で手にしていた一枚のチラシに目を止めた。それは、薄暗い路地裏で受け取ったものだった。「簡単な仕事、即日現金支給」という文字が躍っていた。怪しい仕事だというのはわかっていたが、この絶望的な状況では、もはや選択肢はなかった。

翌日、田村は指定された住所へ向かった。それは都心から少し外れた場所にある古いビルで、外見はボロボロだ。ビルの一室に入ると、中年の男が待っていた。彼の名は佐藤と名乗った。薄い髪とサングラスが特徴で、口調は冷たく淡々としていた。

「仕事は簡単だよ。ここに行って、指定された荷物を届けるだけ。何も考えず、言われた通りにやればいい。それで10万円が手に入る」

10万円。田村の心は一気に揺らいだ。何も考えずに、それを受け取ればいいだけだと自分に言い聞かせた。お金が手に入る。それが何よりも重要だ。佐藤は封筒を田村に差し出した。

「ここに住所が書いてある。時間は明日の深夜1時。必ず一人で行くこと、わかったか?」

田村は何も言わずに頷き、封筒を手にしてその場を後にした。翌日の夜、彼は指示通り指定された場所に向かう。その場所は、郊外にある寂れた工業地帯の一角だった。周囲には誰もおらず、薄暗い街灯がちらほらと灯るだけで、静寂が支配していた。

田村は指定された時刻に到着し、荷物を持って薄暗い倉庫の中に足を踏み入れた。中には、既に誰かが待っていた。黒いスーツを着た二人組の男たちが彼を無言で迎え、田村は緊張に包まれながら荷物を差し出した。

男たちは荷物を開け、中身を確認すると、片方が短く頷いた。それで仕事は終わった。田村は深く息を吐き出し、逃げるようにその場を去ろうとした。

だが、背後から足音が響いた。急に誰かが彼の肩を掴んだ。

「待て」

振り返ると、佐藤が現れた。彼の表情は以前と同じように冷たく、感情が読めなかった。

「お前、何か知ってるのか?」

田村は混乱した。彼はただ指示通りに動いただけだ。何も知らないはずだった。だが、佐藤の目は疑念に満ちていた。

「俺は…ただ荷物を届けただけだ。何も知らない、本当に」

佐藤はしばらく田村を睨んでいたが、やがて笑った。それは不気味な笑いで、田村の背筋を凍らせた。

「そうか。じゃあ、もう一つ仕事を頼む」

佐藤は再び封筒を取り出し、田村に差し出した。中には、さらに詳細な指示が書かれていた。田村はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、足が動かなかった。再び受け取れば、もっと深いところに引き込まれると理解していた。

だが、彼にはもう後がなかった。お金が必要だった。目の前の10万円は、彼にとっては命綱だった。

次の仕事はさらに危険だった。指定された人物から、ある「重要な書類」を盗み出すこと。それが終わればさらに20万円が手に入るという。

田村は、これが最後だと自分に言い聞かせた。だが、その盗みの現場で、彼は予想もしなかった事態に巻き込まれた。暗闇の中、偶然目撃してしまったもの。それは、殺人だった。

突然の出来事に、田村は足をすくませた。逃げることもできず、その場に立ち尽くすしかなかった。殺人犯の顔を見てしまった彼は、次のターゲットとして狙われる立場に立たされてしまったのだ。

佐藤との取引は終わったはずだった。だが、田村は再び電話を受け取った。「お前、見てしまったな?」その声は冷たく、そして無慈悲だった。逃げ場はなかった。田村はすでに、犯罪の深淵に足を踏み入れていたのだ。

彼の心臓は激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。彼はもう逃げられない。お金がない――その事実が、彼を破滅へと導いたのだった。

夜の街を歩きながら、田村はもう自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。








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