お金がない

お金がない

「お金がない」

10月の空は、少し重たく感じられた。日差しがまだ温かく、季節外れの蒸し暑さもある。しかし、ヒロシの心は秋の風のように冷たかった。郵便ポストに入っていた今月の光熱費請求書を手にしながら、彼はため息をついた。毎月、少しずつ上がる物価。最近の食品値上げも彼を追い詰めていた。

「またか…」

ハムやソーセージ、飲み物までもが次々と値上がりしているというニュースを聞きながら、彼は自分の生活がじわじわと追い詰められていく感覚を覚えた。スーパーに行くたび、手に取る商品が値上げされているのを感じる。500円札で買えたものが、今では600円、700円になっている。

「こんな調子じゃ、いつまで持つんだろう…」

ヒロシは、以前は夢を持って働いていた。彼は小説家として食べていける日を夢見ていたが、その夢はすっかり遠のいてしまった。毎月わずかな収入では、家計を支えることは到底できなかった。

仕事を変えることも考えたが、50代半ばに差し掛かって新しい職を探すのは容易ではなかった。体力も衰え、若い頃のような働き方はできない。周囲の同世代は定年後もアルバイトをしている姿をよく見かけるが、自分もそうなるのかと考えると、胸が重くなる。

「選択」
ヒロシは、家の中で一人、ため息をつく。冷蔵庫の中身は少なくなり、週に一度のスーパーへの買い物がいつも恐怖だった。今月の食費をやりくりするためには、何を削ればいいのか。酒も飲まなくなった。お菓子ももう何ヶ月も口にしていない。チョコレートが好きだったが、値上げラッシュでそれも手が出なくなっていた。

「もう、やるしかないか…」

彼は、先延ばしにしていたリハビリのことを思い出した。ケアマネージャーから勧められていたリハビリに参加することで、少しでも体を動かせるようになれば、また何か新しい道が開けるかもしれない。しかし、リハビリを始める決断を先送りしていた自分がいた。

「お金がないって、ただぼやいてるだけじゃダメだよな…」

ヒロシは、自分を奮い立たせるようにつぶやいた。彼は、郵便局の近くで見かける75歳を過ぎたガードマンの姿を思い出す。あの人たちは、生活のために頑張っている。年齢を重ねても、体を動かし、仕事をしている姿に、自分は何をしているんだと感じることが多かった。

「一歩」
翌日、ヒロシはケアマネージャーに電話をかけた。リハビリをやってみることを伝えると、彼女は優しく応援してくれた。

「リハビリを始めて、少しでも体が動くようになったら、新しい仕事も見つかるかもしれませんよ。」

その言葉は、ヒロシにとって小さな希望だった。リハビリを始めることで、これまで動かせなかった体が少しでも改善するかもしれない。仕事が見つかれば、少なくとも毎月の食費を稼ぐことはできるかもしれない。生活が少しでも楽になるかもしれない。

リハビリの初日、ヒロシは緊張しながら施設に足を運んだ。同じようにリハビリを受けている高齢者たちが笑顔で彼を迎えてくれた。少しずつ体を動かし、筋力を取り戻す練習が始まった。簡単な運動だったが、体が重く感じた。

それでもヒロシは、一歩ずつ前に進むことを決意した。このままではいけない。自分にはまだやれることがある。郵便局へ行く道をもう一度歩けるようになること、それがヒロシの新たな目標だった。

「未来への小さな光」
ヒロシは少しずつ、リハビリを通じて体力を取り戻し始めた。数週間が経ち、郵便局への道も短く感じられるようになってきた。まだ完全には元に戻っていないが、それでも一歩前進していることを感じられた。

そして、スーパーでの買い物も少しずつ余裕ができてきた。リハビリに通いながら、短期のアルバイトも見つけることができた。少額ではあるが、生活費の一部を補えるようになったのだ。日々の生活が厳しいことに変わりはないが、それでもヒロシの心には小さな希望が灯った。

お金がないという現実は、依然として重くのしかかる。しかし、彼はもうその重みに押しつぶされることはなかった。郵便局へと向かう道すがら、空を見上げると、10月の空はすっかり秋色に染まっていた。

「まだまだ、これからだな…」

ヒロシはつぶやき、小さく微笑んだ。