お金がない

喫茶店の灰皿

喫茶店の灰皿

1. 出会いの場所
大輔はいつも通り、駅前の小さな喫茶店「カフェ・グリーン」に入った。ここは彼にとって、仕事の合間やちょっとした息抜きの時間を過ごすための隠れ家的な場所だった。昭和レトロな内装に、ジャズが静かに流れる。店内のあちこちに置かれた観葉植物と、少し色あせたポスターが、長い年月を感じさせる。

「いつもの席にしますか？」

ウェイトレスの優子が微笑みながら尋ねてきた。彼女の柔らかな声と、穏やかな笑顔が、この店の居心地の良さをさらに引き立てていた。大輔は軽く頷いて、いつもの窓際の席に腰を下ろした。そして、コーヒーが来るまでの間、店内の光景をぼんやりと眺める。煙草の煙が少しだけ漂う、そんな光景が彼には心地よかった。

2. 灰皿への興味
大輔は喫煙者で、喫茶店に置かれたステンレスの灰皿を見ていると、なぜか心が落ち着いた。どっしりとした重さと、指で撫でたときの冷たい感触が好きだった。タバコを吸うたびに、その灰皿が無意識に目に入る。形はどこにでもありそうな普通のもので、無個性と言ってもいい。しかし、大輔にとってそのシンプルさがたまらなく魅力的だった。

「こんなに重厚感があって、落ち着く灰皿ってなかなかないんだよな…」

彼はいつもその灰皿を手に取っては、回転させてみたり、端に刻まれた店のロゴを指でなぞったりしていた。ふとした瞬間に、その灰皿を自分のものにしたいという衝動に駆られることがあった。何故だか、手にしていると心が安定するような気がしたからだ。

3. 行動のきっかけ
ある日、大輔はいつも以上に疲れていた。仕事のミスが重なり、上司に叱責され、同僚とのちょっとした口論もあった。心がすり減り、何もかもが面倒になっていた。彼はその日の仕事帰りに「カフェ・グリーン」に立ち寄った。店内はいつもと変わらず、穏やかな空気が流れていたが、大輔の心は不安定だった。

「コーヒーとチーズケーキ、お願いします」

優子はいつもと変わらぬ笑顔で、注文を受けた。しかし、大輔の心の中では何かがざわついていた。彼はぼんやりと灰皿を見つめ、ふとした瞬間に、店の閉店時間が近づいていることに気づいた。時計は21時を回ろうとしていた。

「これ、持って帰ったらどうなるんだろうな…」

そう呟いた瞬間、大輔の中で何かが決まった。彼は無意識のうちに、手元のステンレスの灰皿をカバンの中に滑り込ませた。心の中で罪悪感がよぎったが、それを打ち消すように、彼は何事もなかったかのように席を立ち、会計を済ませた。

4. 変化の瞬間
家に帰ると、大輔はすぐに灰皿をカバンから取り出した。冷たい感触が手に伝わり、少しだけホッとした気分になった。しかし、その瞬間、彼は自分の行動に対して猛烈な後悔の念に駆られた。

「何やってんだ、俺…」

彼は灰皿を机の上に置き、その前に座り込んだ。目の前の灰皿が、いつも以上に無機質に見えた。自分の行動が信じられなかった。なぜこんなことをしてしまったのか、その理由すらはっきりとは分からなかった。灰皿は静かにそこにあり、大輔の罪悪感を映し出すように冷たく光っていた。

5. 償いと再出発
翌朝、大輔は早めに起きて、灰皿をカバンに入れ直した。そして、喫茶店の開店時間に合わせて「カフェ・グリーン」に向かった。店に入ると、いつも通りの穏やかな空気が流れていた。優子はカウンターの奥で忙しそうにしていたが、大輔の姿を見ると少しだけ驚いたような顔をした。

「おはようございます、今日は早いですね」

大輔は少し緊張しながら、カバンから灰皿を取り出し、優子に手渡した。

「これ、間違えて持って帰ってしまって…本当にすみません」

優子は一瞬驚いたが、すぐに微笑んで頷いた。

「大丈夫ですよ。気にしないでください。また来てくださることの方が、ずっと嬉しいですから」

大輔は優子の言葉に救われた気がした。彼はもう一度席に座り、いつものようにコーヒーを注文した。店内のジャズが再び心に染み渡り、彼の心の中のわだかまりは少しずつ解けていった。灰皿はいつもの場所に戻り、大輔は再びその灰皿を見つめた。彼はもう、それを自分のものにしようとは思わなかった。

「本当に大切なのは、形じゃなくて、ここに来て落ち着けることなんだな…」

大輔はそう思いながら、ゆっくりと煙草に火をつけた。灰皿に溜まる灰を見つめながら、彼はこの場所が与えてくれる安らぎに感謝し、新たな一日を静かに迎えた。