お金がない

地名が読めない男

「地名が読めない男」

夜の糸魚川市は静まり返り、秋の風が街の路地を冷ややかに駆け抜けていた。そんな中、80代の一人暮らしの女性、田中良子さんは、家の中で落ち着かない様子だった。息子を名乗る声で電話が鳴ったのは数時間前。「カバンを落として、今日中にお金が必要だ」とのこと。息子の声には聞こえたが、少し様子がおかしかった。しかし、良子さんはその言葉に従い、心配しながらも200万円を用意した。

「上司の甥が受け取りに行く」という話だった。それが本当かどうか、良子さんには確かめる術がなかった。こんな夜遅くに現金を渡すなんて、不安で仕方なかったが、「息子のため」と自分に言い聞かせ、彼女は待つことにした。

一方、大阪市に住む36歳の男は、糸魚川市の細い路地を彷徨っていた。彼は地名がまったく読めず、スマートフォンの地図アプリも助けにならないようだった。関西からやって来た男にとって、北陸の地は見知らぬ土地。さらに、糸魚川の特有の地名の読み方は、彼の頭をますます混乱させていた。

「ここが…、田中さんの家、か？」

男は道に迷いながら、夜の町を徘徊していた。怪しい行動は目立ち、付近のタクシー運転手もその様子を訝しげに見ていた。男がタクシーに乗り込んだ時、運転手は警察に通報を入れた。「地名が読めない不審な客がいる」と。警察が直ちに駆けつけると、男はすぐに職務質問を受けることとなった。

「なんや、警察か？」

男は関西弁で不満をもらしながら、目の前の警官たちに質問された。対応した警官は冷静に、しかし鋭く尋ねる。

「あなたはどこから来たんですか？何のためにここにいるんですか？」

男は最初はごまかそうとしたが、次第にうろたえ始めた。その態度に警官たちは確信を持ち、さらなる追及を続けた。

「糸魚川市内でオレオレ詐欺の報告が複数寄せられています。あなたが関与しているのでは？」

その問いかけに、男は口を閉ざし、目を伏せた。しかし、警官の目はその先を逃がさなかった。男のポケットには、良子さんからだまし取った現金200万円が収められていた。現金の封筒はその場で押収され、男は観念したように肩を落とした。

警察署で取り調べを受けた男は、観念したように口を開いた。

「受け子役として来たんや。詐欺と知りながらやったことは間違いない。金を持って帰ったら、俺も少しは取り分がもらえると思ったんや」

その言葉には後悔の色も、反省の色も感じられなかった。彼にとって、この行為はただの「仕事」でしかなかったのだろう。しかし、その「仕事」によって、良子さんの心には深い傷が残されていた。

良子さんは翌日、警察からの連絡で自分がだまされたことを知った。お金は戻ってきたが、それよりも何よりも、息子を思う気持ちを利用されたことが許せなかった。警察からの説明を聞きながら、良子さんはただただ涙を流していた。自分が信じた相手が本当の息子ではなかったこと、その声が嘘だったこと。それが彼女の心を最も傷つけたのだ。

「もう誰も信じられない…」

良子さんはそう呟きながら、電話を見つめた。電話の向こうの声に騙されないようにと、これからは気をつけなければならない。その決意を新たにしつつ、彼女は静かな夜に身を沈めた。

男は緊急逮捕され、今後の捜査が進む中で、他の共犯者の存在も明らかになっていくだろう。しかし、彼らがいかにして罪を重ねたか、その罪の重さが消えることはない。詐欺の手口は進化し、巧妙化しているが、最後に勝つのはいつも人の善意だ。

地名が読めないという小さな違和感が、大きな事件を暴くきっかけとなった。男が捕まり、良子さんの200万円が無事に戻ってきたことは、警察の迅速な対応によるものだ。しかし、それでも彼女の心の傷は消えない。失われた信頼を取り戻すには、時間がかかるだろう。

良子さんは、もう二度と息子の声を信じることはないかもしれない。それでも、彼女は静かに生きていく。騙されないように、傷つかないように。人を信じることの難しさと、その尊さを知った夜だった。