お金がない

虚構の豪邸

「虚構の豪邸」

梅雨の湿気がこもる東京の街角に、石川和也は立ち尽くしていた。彼が見つめる先には、数ヶ月前まで豪華なホテルだった「海喜館」が広がっていた。今はただの空き地だが、和也にとっては悪夢の象徴だった。彼は、かつてこの場所で起こった最大の詐欺事件に深く関わっていた。

和也は大手住宅メーカー「積水ハウス」に勤務する不動産担当者であり、当時は順調なキャリアを歩んでいた。しかし、2017年6月1日、和也の人生は一瞬で崩壊した。その日、彼は会社の決定で「海喜館」の土地購入を担当することになった。この土地は、時価100億円とされ、積水ハウスにとって大きなプロジェクトだった。

「これは大きなチャンスだ」と、和也は喜びに満ちていた。しかし、その背後には、巧妙な詐欺が潜んでいたことを彼は知る由もなかった。

土地の購入手続きは順調に進んでいるように見えた。和也は売り手の代表者と数度にわたり面会し、契約を進めていった。印鑑証明や公正証書もすべて揃っており、疑う余地はなかった。和也は慎重を期し、法務局に土地の登記を確認し、問題がないことを確認した。

ついに契約の日が来た。積水ハウスは「海喜館」の土地購入代金として、55億5千万円を支払った。その瞬間、和也は自分のキャリアの頂点に立ったような気がした。しかし、その喜びは短命だった。

数日後、積水ハウスの法務部から緊急の連絡が入り、和也の心臓は凍りついた。「和也君、土地の登記がまだ移転していない」との報告だった。彼は慌てて調査を開始したが、すぐに驚愕の事実が判明した。売り手として登記されていた人物は、実在しない偽造者であり、すべての書類が巧妙に作られた偽物だった。

和也は絶望の淵に立たされた。どうしてこんなことが起こったのか？すべての手続きが適切に行われたはずだったが、それがすべて虚構であったことが明らかになった。彼はただの駒に過ぎなかったのだ。

積水ハウスからの告訴を受け、警視庁は捜査を開始した。和也は連日警察に呼び出され、厳しい尋問を受けた。彼の頭の中には、自分が騙されたことへの怒りと、自分がその過程で何も気づかなかったことへの無力感が渦巻いていた。

2018年10月、地面師グループの数名が逮捕された。彼らは、偽造パスポートを使って実印を不正に変更し、印鑑証明や公正証書を偽造することで積水ハウスを騙し取る計画を完璧に遂行していた。警視庁の調査により、彼らが他の多くの詐欺事件にも関与していることが判明した。

和也は、彼らが捕まったことで少しは安心したが、彼の心には深い傷が残った。自分が関与したプロジェクトが、こんなにも大きな詐欺の一部だったことが、彼の自信を完全に打ち砕いた。

事件の公判が進む中、和也はドラマ化された地面師の事件を見て、現実と虚構が入り混じる感覚に陥った。新庄耕の小説「地面師たち」は、この事件を元にしていたが、和也にはそのリアルさが胸に刺さった。彼はドラマの中で、「本物の地面師は殺人はやらない」「詐欺罪の懲役は10年まで。出所後に騙し取った金を得る」というセリフに苦笑した。それは、現実の地面師たちが、いかに冷徹で計算高い存在であるかを思い出させたからだった。

和也は事件後、積水ハウスを退職した。彼は、自分のミスが会社に多大な損害を与えたことに耐えられなかった。そして、今は東京の片隅で静かに暮らしている。彼はもう二度と不動産には関わらないと決めた。

しかし、彼の心の中には、あの豪華な「海喜館」の姿が消えずに残っている。それは、彼の過去の栄光と、その後の転落を象徴するものだった。和也は今も、その地面師たちの虚構の世界に取り込まれた自分を呪いながら、再び立ち上がる日を静かに待っていた。