「俺は小説家になる」と申しております

自分を大切にするということ

『自分を大切にするということ』

深夜のカフェで、一人の女性が黙々とノートにペンを走らせていた。名前はサエコ。30歳になったばかりの彼女は、最近、人間関係に疲れ切っていた。

数日前、職場の飲み会での出来事が頭をよぎる。同僚の中村が、明らかにサエコを軽く扱うような言動を繰り返していたのだ。ちょっとしたミスを指摘するたびに、声に含まれる侮蔑の色。周囲の笑い声。それに耐えながら、サエコはその場では笑顔を保った。けれども、帰り道でひどく虚しくなった。

「なんで私がこんな思いをしなきゃいけないの？」

サエコは翌朝、鏡を見つめて思った。疲れた顔が映る。自分をこんな風に追い詰めているのは誰だろう？そして、気づいた。自分自身だ、と。

その日、サエコは意識的に距離を取ることを決めた。中村のいる会話に無理に加わらない。彼が話しかけてきても、必要最低限の応対だけをする。相手が変わらないなら、自分が変わればいい。それが、サエコの最初の決意だった。

意外なことに、その変化はすぐに周囲にも伝わった。同僚の田中が昼休みに声をかけてきた。
「最近、中村さんに対してサエコさん、少し態度変わったよね。」

サエコは少し驚きながらも笑って答えた。
「そうかな。ただ、無理して付き合う必要がないって思っただけ。」

田中は小さく頷いた。
「それ、正解だよ。あの人、調子に乗るタイプだから。自分を大事にするの、大事だと思う。」

仕事だけでなく、プライベートでも同じことが言えた。友人のミホは、何かとサエコを利用するような言動を続けていた。たとえば、飲み会の割り勘でいつも少し多く払わせるように仕向けたり、自分の都合でドタキャンしたり。それでも、サエコは「友情」を理由に我慢していた。

だが、ある日、ミホがまたもや一方的な理由で約束を破ったとき、サエコは初めてはっきりと伝えた。
「ミホ、こういうことが続くと、私たちの関係ってフェアじゃないと思う。」

ミホは一瞬、驚いた顔をしたが、やがて冷たい声で言った。
「そんなこと気にするなら、もう友達じゃなくてもいいよ。」

その一言にサエコは傷ついたが、不思議とすぐに立ち直れた。むしろ、自分を軽んじる人との関係に縛られる必要がなくなったことに、ほっとしていた。

ある日、サエコはカフェで新しい本を手に取りながら、ひとり静かな時間を楽しんでいた。ノートにはこう書かれていた。

「ないがしろにされていると感じるなら、そこから離れるべきだ。少しでも軽んじられていると感じるなら、関係を見直そう。怒りを感じたら、それを無視しない。話が通じない相手には、無理に話す必要はない。何より、自分を犠牲にすることはしない。私は私を大切にする。」

その言葉を眺めながら、サエコは少し笑った。

カフェの外に出ると、春の風が頬をなでた。これからどう生きていこうか。それはまだ曖昧な未来だったが、少なくとも、これまでのように自分を粗末に扱うことはしない。

「大事にしたい人たちだけを大事にすればいい。」

サエコは新しい靴で歩き出した。自分を取り戻すために。