「俺は小説家になる」と申しております

智と情と意地のはざまで

『智と情と意地のはざまで』

12月9日、漱石忌のその日。東京の神楽坂にある小さな書店で働く直哉（なおや）は、店の窓際に並べた『草枕』を手に取り、ふと口ずさんだ。

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ…。」

古びた文章に宿るこの言葉を、彼はいつも心の奥底で噛みしめていた。何故なら、自分自身の生き方にそれが当てはまるような気がしてならなかったからだ。

直哉は書店で働きながら小説家を目指していた。が、何を書いても自分の言葉が空回りし、編集者には「観念的すぎる」「読者の心を掴むには感情が足りない」と言われ続けていた。

ある日、書店に美咲（みさき）という女性が訪れた。彼女は髪を後ろでまとめ、まるで時間を遡ったかのようなアンティークな装いをしていた。

「漱石がお好きなんですか？」

彼女がレジに持ってきたのは『草枕』だった。その表紙を見る彼女の瞳は、どこか懐かしさと哀愁を帯びているように見えた。

「ええ、この一節が特に心に響くんです。智に頼りすぎると孤立してしまうし、情に流されると自分を失う。そうならないように生きるのが難しいと感じます。」

その言葉を聞いて、直哉の胸に衝撃が走った。彼女が語る悩みは、自分がずっと抱えてきたものと同じだったからだ。

それから彼女は常連となり、二人は自然と親しくなっていった。ある日、美咲がふとこう言った。

「直哉さんは、智と情と意地、どれを選びますか？」

「どれも捨てられない。捨てたら、自分が壊れる気がする。でも、全部抱えたまま生きるのも苦しい。」

美咲はその言葉に少し笑った。

「人は、全部を抱えて生きる必要なんてないんじゃないですか？大事なのは、自分が何を本当に必要としているかを知ること。」

その日の帰り道、直哉は彼女の言葉を何度も反芻した。自分にとって、本当に必要なものは何なのだろうか。

ある冬の日、美咲は書店を訪れることがなくなった。彼女が最後に語ったのは、自分の母が長く病気と闘っているということだった。そして「しばらく実家に帰ります」とだけ言い残し、それ以降、連絡も途絶えた。

直哉は彼女の姿を思い出しながらも、筆をとり、自分の想いを文字にすることを決めた。智でも情でも意地でもなく、「美咲」という一人の女性が彼の心を突き動かしたのだ。

書き上げた小説は、美咲との出会いと別れ、そして自分の内面の葛藤を描いたものだった。それは奇しくも漱石の『草枕』を模したような観念的なものでありながら、直哉自身の心情が熱く込められていた。

作品は、意外なことにある文芸雑誌に掲載され、多くの読者の共感を得た。

それからさらに数年が過ぎた12月9日、漱石忌の日に、直哉は書店で再び『草枕』を手にとっていた。そこへ聞き覚えのある声がした。

「漱石、まだ好きですか？」

振り向くと、そこには美咲が立っていた。

「もちろん。…でも、美咲さんのほうが、もっと好きかもしれない。」

彼の言葉に、美咲は柔らかく笑った。

「私も。」

漱石忌のその日、二人の時間は再び動き出した。

おわり