「俺は小説家になる」と申しております

君がいた日々

「君がいた日々」

「俺は小説家になる。」

その言葉が、彼女との最後の会話だった。

雨の降る夜だった。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、まるで静かな涙のように輝いていた。二人は、駅のホームで最後に顔を合わせた。手に持っていた小さなノートには、夢や希望、そして彼女への思いが詰め込まれていた。彼女の名は春菜。僕の初恋で、そして最後の恋だった。

「もう、遅すぎるんじゃない？」春菜は、そう呟きながら僕を見上げていた。涙を浮かべた瞳は、雨のせいで少しぼやけている。彼女はいつもそうだった。誰かを傷つけないように、誰かを悲しませないように気を使って、笑顔を見せてくれた。

「ごめん、春菜。」僕はそう言うと、必死に彼女を見つめた。胸が痛い。もう、何もかもが遅すぎる。彼女に告げた言葉は、どこか遠い未来を夢見た僕の誤魔化しに過ぎなかった。

「君は、作家になりたかったんだよね。すごく頑張ってたじゃん。だから、今、こうして一人で進んで行くべきだと思う。でも、私は…私がどうしても必要だった時に、君はいつも遠くにいた。」春菜は静かにそう言って、僕の目をじっと見つめた。その声は震えていたが、彼女の言葉には痛みと、どこか悟ったような強さが感じられた。

「それでも、俺は君と一緒にいたかった。君のことが大好きだったから、ずっと一緒に…」僕は口をつぐんだ。もう何を言っても、間に合わないことはわかっていたから。

「でも、君は一人でいることを選んだんじゃないか。ずっと、夢を追いかけて、俺たちのことを後回しにしていたんじゃないか。」春菜の目から涙が一粒、頬を伝って落ちた。

その瞬間、僕の胸の奥に、言葉にできないほどの痛みが広がった。彼女の言葉が、まるで刃のように心を貫いてきた。そうだ、僕は自分の夢に、彼女を後回しにしてしまっていた。彼女がどれだけ支えてくれたのか、どれだけ僕を理解しようとしてくれたのか、今さら気づいても遅すぎる。

「僕…僕は、小説家になりたいんだ。」もう一度、そう言った。これが最後の言葉だった。

春菜は静かに頷き、無言で僕の目を見つめていた。言葉では伝えきれない感情が、ただその瞳に込められているようだった。

その時、彼女は一歩踏み出し、僕に向かって歩いてきた。突然のことで、僕は何も言えなかった。ただ、彼女の目を見つめているしかなかった。そして、春菜は僕の前で立ち止まり、ゆっくりと涙を拭いながら言った。

「君が小説家になったら、私のことを忘れないでね。私がいなくても、君の夢が叶うことを願ってるから。」

その言葉に、僕は何も言えなかった。ただ、無力さと後悔が胸に押し寄せ、声が出なかった。

「でも、私も自分の道を行くよ。」春菜は微笑んだ。その笑顔は、どこか悲しげで、切なくて、それでも強さを感じさせた。彼女が僕を思ってくれていたこと、ずっと支えてくれていたこと、その全てが今になって胸を締め付けてきた。

「ありがとう。」その一言が、僕にとって全てだった。

春菜は、静かに僕の目を見つめた後、ゆっくりと背を向けて歩き始めた。その姿を見送りながら、僕は何もできなかった自分を呪った。夢を追うことが正しいのか、彼女を選ぶことが正しいのか、今さらわからない。

その後、春菜からの連絡はなかった。僕は、彼女が別の道を歩んでいることを知っていた。彼女には新しい人生が待っている。それを見守ることしかできなかった。

そして、月日は流れ、僕は小説家になった。成功も失敗も繰り返し、ようやく自分の名前を世に知らしめることができた。それでも、どんなに名声を得ても、どんなに賞を受けても、胸の中にぽっかりと空いた穴は埋まらなかった。

春菜がいた日々。それが僕にとって、何より大切な思い出だった。彼女がくれた言葉、あの涙、あの微笑みが、今も胸に残っている。

夢を追いかけることと、愛を選ぶこと。その二つを天秤にかけてしまった自分が、ただ一人、時折振り返って思うのは「もしあの時、彼女を選んでいれば、今頃どうなっていただろう」という後悔だけだった。

そして、僕は今日も筆を取る。その先に春菜がいることを、今も信じて。

「君がいた日々を、忘れないために。」