「俺は小説家になる」と申しております

地獄の静寂

「地獄の静寂」

地獄の静寂は、想像以上に心地よいものだった。そこには偽りも嘘もなく、すべてがありのままだ。光も音もない、ただただ深い闇の中で感じる自分の存在。静けさに包まれているのは、ただ一人、ルカだけだった。

ルカは生前、人々の目に映る顔と、心の中で抱える顔があまりにも違うことに耐えきれなくなっていた。彼は他人の嘘に気づいてしまうことが苦痛で、次第に人々との距離を取るようになっていった。それでも、社会の中で生きていかなければならず、彼は役者のように、顔を作り続けた。無理に笑顔を作り、無理に人々に好かれようとした。しかし、心の中でどうしても受け入れられなかった。

「この世界は、偽善だらけだ。」

生前、何度も彼はそう思った。人々は、見えないところで他人を裏切り、嘘をつき、自己利益を追い求める。それなのに、表面では「みんなのため」と言いながら、結局自分を守るために動いている。そんな姿が、ルカの心を苦しめていた。

ある日、ついに彼は絶望の淵に立たされることになった。愛していた人から裏切られ、信じていた友人に騙され、仕事も失い、最後にはすべてを放棄してしまった。心の奥で感じていた疑念が現実となり、彼は自分を守ることすら諦めてしまった。

そして、彼の命は尽きた。気づけば、もうどこにも誰もいない場所に立っていた。光のない空間。そこは、まるで「地獄」と呼ばれる場所のようだった。

最初は驚き、恐れがあった。しかし、地獄の中で彼が感じたのは、予想もしなかった心地よさだった。ここには、人々の虚構がない。すべてがただの「存在」として、静かに広がっているだけ。地獄の冷たい空気が、彼の心に直接触れる。温かさも冷たさもなく、ただ「ここにいる」という事実だけが存在していた。

「ここは、案外悪くない。」

それがルカの最初の感想だった。生きていた頃には感じることのなかった、この解放感があった。人間関係の煩わしさも、社会の期待も、もはや存在しない。誰も彼を評価しないし、評価する必要もない。ルカはただ、彼自身として「ある」ことができる。もう、嘘をつく必要も、誰かの期待に応える必要もなかった。

そして、ルカはあることに気づく。地獄には、偽善者がいないのだ。生前の彼は、常に他人の嘘を見抜いてしまい、その偽りの顔に耐えられなかった。しかしここでは、偽善が通用しない。誰もが自己中心的であり、真実を隠すことなく、自分をさらけ出している。嘘をついても、何も隠さなくても、それが普通の世界だった。

「地獄は、こんなにもシンプルで、清々しい場所なんだ。」

ルカは静かに思った。生前、彼は常に他人の顔色を伺い、無理に自分を変えようとしていた。しかしここでは、誰も彼に期待することはない。誰も彼を裁くこともない。ここでは、ただ存在していることがすべてだ。

やがて、彼は一人きりで過ごすことに慣れていった。地獄に来ることが、自分にとっての解放だったと感じるようになった。外界の評価から解き放たれ、他人の期待に縛られることなく、自分のペースで時間を過ごす。それは、彼にとっては一種の幸せに近い感覚だった。

ある日、ふとした瞬間に、ルカは思い出す。地獄に来る前、彼は何をしていたのか。過去の記憶がよみがえってくる。彼はかつて、人々の中で生きることを選び、心の中で抱えていた疑念に抗い続けていた。しかし、結局その結果はどうだったのか。彼の周りの人々は、すべて自分の利益のために動いていた。そして、ルカはその真実に気づいてしまった。彼がどれだけ本気で他人を信じようとしても、その裏には必ず偽りが隠れていた。

「ここでは、もう誰も騙さない。誰も嘘をつかない。」ルカは静かに呟いた。

地獄には、もはや偽善者もいない。誰も彼を試すことなく、ただ静かな時間が流れていくだけだった。そして、ルカはその中で、自分の存在が唯一の真実であることを実感していた。

「偽善者がいないから、地獄は居心地がいい。」彼は心の中でそう確信した。

地獄は決して明るい場所ではないかもしれない。しかし、そこで彼が感じていたのは、心の平穏だった。他人に気を使うことなく、ただ自分として存在できることの幸せ。それが、ルカにとっての「地獄の静寂」だった。