「俺は小説家になる」と申しております

春秋花壇

文字の大きさ

大中小

1,456 / 1,573

愛は盲目で、恋人たちは見えない

しおりを挟む

愛は盲目で、恋人たちは見えない

彼の名前は陽一（よういち）。都会の喧騒から少し離れた街のカフェで働いている、どこにでもいる平凡な青年だ。毎日同じようなルーチンに追われ、時間が過ぎるのをただ無意識に感じていた。しかし、そんな陽一の心に変化をもたらしたのは、ある一人の女性との出会いだった。

その女性、沙希（さき）は、ある日突然カフェに現れた。彼女は一見、どこか無表情で冷たく見えるような、少し謎めいた雰囲気を持っていた。その目は、他の誰とも違う輝きを放ち、視線が交わると心に何かが引っかかるような感覚に包まれた。陽一は初めてその日、彼女に強く引き寄せられる気持ちを抱いたのだ。

沙希は頻繁にカフェに来るようになり、陽一は次第に彼女のことを気にするようになった。彼女が注文するコーヒーを手際よく出し、彼女の目を見て軽い会話を交わすと、その度に胸の中に奇妙な温かさが広がった。彼女がいるだけで、何も特別なことがない日常が少しだけ色づいたような気がした。

「今日は寒いですね。」

ある日の午後、沙希がいつも通りにカフェに入ってきた。陽一はその日も微笑みながらコーヒーを淹れた。

「ええ、少し冷えますね。どうぞ、温まってください。」

コーヒーを手渡しながら、陽一は沙希の目を見た。その目には何かが隠されているような気がして、思わず言葉が出た。

「沙希さん、何かお悩みですか？」

沙希は少し驚いたように陽一を見つめ、その後にゆっくりと目を伏せた。長い沈黙が続いたが、やがて彼女が口を開いた。

「悩みですか…。」

「何かあったら、話してもいいんですよ。」

沙希は深呼吸をしてから、陽一に向き直った。その瞬間、陽一はふと、彼女の顔に隠された悲しみを感じ取ったような気がした。しかし、彼女は何も言わなかった。ただ、小さく笑って言った。

「ありがとうございます。でも、私の悩みは他の誰にも理解してもらえるものじゃないんです。」

その言葉に、陽一は胸が締め付けられるような気持ちになった。彼女の中には、きっと誰にも言えないような辛い過去があるのだろう。彼女の沈黙が、それを物語っていた。陽一は何かを伝えたくてたまらなかったが、言葉が出なかった。

その日の後、陽一はますます沙希に対して強い想いを抱くようになった。彼女の存在が、何もない自分の世界に光を差し込んでくれるように感じていた。しかし、その想いが深くなるにつれ、彼女との距離がますます遠く感じられるようになった。

ある晩、陽一は思い切って彼女に声をかけることにした。

「沙希さん、今度一緒にご飯でもどうですか？」

その言葉が出た瞬間、沙希の顔がわずかに歪んだ。何かを言いたげに唇を開いたが、すぐに黙り込んだ。彼女はしばらくの間、陽一を見つめた後、静かに答えた。

「私は、そういうの、もう必要ないんです。」

その言葉に陽一の胸は何か重いものが乗ったような気がした。必要ない？それはどういう意味だろう。彼女の目の奥には、隠された感情が渦巻いているように感じられたが、陽一にはそれを読み取ることができなかった。

「どうして…？」

「だって、私はあなたにとって、ただのカフェの客でしかないんですから。」

その言葉は、陽一の心に大きな衝撃を与えた。彼女はそれまでの彼とのやり取りが、ただの一時的なものであり、深い意味を持たないものであると思っているのかもしれない。だが、陽一は心の中で何かを確信していた。

沙希は、自分が思っている以上に孤独を抱えている。

それが、陽一にとって大きなショックであり、同時に彼女を守りたいという気持ちを強くした。だが、その気持ちがどれほど強くても、彼女の心の扉を開くことは簡単ではないと、陽一は知っていた。

時間が経つにつれて、陽一はますます沙希に対して深い感情を抱くようになったが、その気持ちは次第に執着へと変わっていった。愛は盲目であると言われるように、陽一は自分の気持ちを抑えることができなくなり、ついに彼女に告白する決意を固めた。

「沙希さん、僕はあなたのことが好きです。」

その言葉を告げた瞬間、沙希の顔に一瞬、驚きと悲しみが交錯した表情が浮かんだ。しかし、彼女はすぐに顔を背け、何も答えなかった。陽一はその沈黙の中で、何も言わずに立ち尽くすことしかできなかった。

数日後、沙希はカフェに姿を現さなくなった。陽一は毎日、カフェの窓から彼女を探していたが、彼女は二度と現れなかった。

陽一は、その時初めて気づいた。自分の愛が盲目的なものだったことに。彼女が抱えていたものや、彼女が見ていた世界を、陽一は何も理解していなかった。ただ、彼女を求める気持ちだけが強くなりすぎていたことに。

そして、彼は一つの答えを出す。**愛は盲目であり、恋人たちはお互いを本当に理解し合うことができないのかもしれない。**それでも、恋をしたこと自体が、彼にとってはかけがえのない経験だった。

それから数ヶ月後、陽一はまたあのカフェで働き続けていた。沙希のことを忘れることはできなかったが、少しずつ、彼女がいなくても生きていく力を少しずつ取り戻していった。愛が盲目であるなら、少なくともその過程で得たものもあった。それが今、彼を支えているのだ。

しおりを挟む