「俺は小説家になる」と申しております

生きることも死ぬこともできない

生きることも死ぬこともできない

冬の冷たい風が吹く町の端に、ひっそりと建っている小さなアパートの一室。アパートの一番奥の部屋に住んでいるのは、岸田圭（きしだ けい）、27歳の男だ。圭はこの町で育ち、そしてここで一人暮らしをしている。外の世界とはあまり関わらず、静かな日常を送っているように見えるが、内心では彼の心に静かに広がる絶望がある。

毎朝、目を覚ますと無意識に窓の外を見つめる。冬の薄曇りの日差しが部屋に差し込むけれど、どこか冷たく、無感情な光のように感じる。圭は仕事も持っているが、他人と接することを避け、周囲との関係はほとんど存在しない。人と関わることが辛いわけではない。ただ、必要ないと思っているだけだ。

彼はいつからだろう、こうして孤独を抱え込むようになったのか。幼少期からの記憶が断片的にしか思い出せないが、父親の暴力と母親の無関心が絡み合って、彼の心に深い傷を残した。それが無意識のうちに人との距離を作り、結果的に彼を孤立させたのだ。

圭が最もよく思うのは、「生きることの意味」だ。人生における価値や目的を、何度も自問自答してみたが、答えは見つからなかった。どんなに考えても、自分の存在がどれほど無意味なものに思えてならなかった。誰も自分を必要としていないし、誰にも求められていない。それでも、彼はただ日々を繰り返す。

ある寒い夜、圭はふと自分の心の中で決意を固める。「もう、これ以上生きる意味がないのではないか」と。彼は思う。このまま何も変わらずに生き続けることは、何も残らないことと同じだと。だから、静かにその選択肢を受け入れることが、もはや唯一の選択肢だと思った。

だが、死にたいという感情を抱くことは簡単ではなかった。それは、ただの逃げのように感じる。生きることも、死ぬこともできない。圭はその狭間で揺れ動く。

翌日、仕事が終わった後、帰り道を歩きながら彼は町を見渡す。夜の街灯が淡い光を放ち、足元には冷たい風が舞っている。どこか心が重く、深い喪失感に包まれたような気持ちになるが、どうしてもその感情を言葉にすることができなかった。

そんなとき、一人の女性が目の前に現れる。駅の前のベンチに座っていた彼女は、見知らぬ顔だった。寒そうに小さなショールを肩に巻きつけ、無表情で空を見上げている。その姿に圭は一瞬足を止めた。何かに引き寄せられるように、その女性の方へ近づいていく。

「寒いですね。」

圭は思わず声をかけていた。彼女は驚いたように顔を上げ、その視線が圭に合った。

「はい、かなり。」

彼女は微笑んだ。少しだけだが、その微笑みに圭は心が動かされるのを感じた。彼は何故かその女性に、普段は見せないような感情を感じていた。無関心でいることに疲れ、何か新しい刺激を求めていたのかもしれない。

「何か、困っているんですか？」

彼女の声はどこか遠くから響くようで、圭の耳に優しく届いた。圭は少し驚きながらも答えた。

「いや、ただ…考え事をしていただけです。」

「そうですか。何を考えているんですか？」

「生きる意味、かな。」

彼女は少し黙ってから、再び微笑んだ。

「生きる意味って、どんな時でも考えない方が楽ですよ。」

その言葉に圭は戸惑った。どうしてもその言葉が心に残った。彼女は再び目を閉じて、風に吹かれるままに静かに座っていた。

「でも、意味がないならどうして生きているんでしょうね？」

圭は思わず呟いた。彼女はその言葉に答えることなく、ただ静かに空を見上げた。そして、何かを思いついたかのように言った。

「もしかしたら、意味なんて最初からないのかもしれません。でも、どんなに小さなことでも、それが意味を持つ時が来るかもしれませんよ。」

その言葉を聞いて、圭はその瞬間、何かが少しだけ変わったような気がした。彼女は何も特別なことを言ったわけではない。ただ、彼女の言葉に込められた優しさと静かな力強さが、圭の心に響いた。

その夜、圭は一度もその踏切を通り過ぎることなく、無意識のうちに、少しだけ前を向いて歩き出した。「生きることも死ぬこともできない」と思っていたその場所から、少しだけ離れていけたような気がした。

意味がなくても、きっとどこかで意味を見つけることができるのだろうか。圭は歩きながら、少しだけ希望を感じていた。