「俺は小説家になる」と申しております

棚上げの人生

「棚上げの人生」

奈緒子は子どもの頃から、周囲に「優等生」として認識されていた。成績も良く、家でも率先して手伝いをし、学校でもリーダー的な役割を果たしていた。大学を卒業し、大企業に就職が決まった時には家族も友人も喜び、将来を嘱望されていた。

だが、社会に出て数年もすると、彼女は次第に心が疲れていくのを感じ始めた。昇進や責任あるプロジェクトを任されるたびに、プレッシャーが彼女を押しつぶしそうになった。奈緒子は、周囲の期待に応えるために必死で努力を重ねてきたが、その分自分のやりたいことや目指していた夢を「棚上げ」にしてきたことに気づき始めた。

ある日の午後、奈緒子は上司に呼び出され、新しいプロジェクトへの参加を命じられた。それは会社の将来を左右するような重要な案件だったが、彼女は心から喜べなかった。昇進や賞賛が約束されているはずなのに、心の奥底には空虚感が広がっていた。

仕事が終わり、会社のビルを出た時、奈緒子はふと足を止めた。ビルの入口には、雨上がりの空にかかる虹が見えた。それを見た瞬間、奈緒子は幼い頃の記憶を思い出した。彼女にはかつて、美術家になるという夢があった。小学生の頃、雨の日に見た虹を描いたことがあり、その絵がクラスで大絶賛されて、奈緒子はその時から絵を描くことに夢中になっていたのだ。

「私は、何をしているんだろう？」

奈緒子は心の中で自問自答した。彼女が心の奥にしまい込み、「いつかきっと」と思いながら棚上げにしてきた夢が、再び彼女の前に立ちはだかった瞬間だった。

その晩、奈緒子は一人で街を歩き、昔行きつけだった小さなギャラリーを訪れた。ギャラリーの壁には、若いアーティストたちの作品が並んでいた。奈緒子はそれらの絵を見ながら、自分もまた、この場所に作品を並べたいと思ったかつての夢を思い出し、込み上げる感情を抑えられなかった。

数日後、彼女は勇気を出して会社に辞表を提出した。上司や同僚は驚き、彼女の決断に理解を示す者は少なかったが、奈緒子は初めて心から自由を感じていた。棚上げにしてきた自分の夢を、今度こそ取り戻すために一歩踏み出したのだ。

新しい生活が始まると、彼女は毎日絵を描き続けた。経済的な不安もあったが、彼女には前よりもずっと満たされた心があった。やがて彼女の絵が少しずつ評価され、いくつかのギャラリーで展示される機会にも恵まれた。

ある日、かつての会社の同僚から展示会に誘われ、奈緒子は驚きとともに再会を果たした。その同僚もまた、「棚上げ」にしていた夢を再び追いかける決意をしたのだという。奈緒子は彼と共に展示を見回りながら、人生の選択の重みを改めて感じた。

夢を棚上げにすることも、夢を追うことも、決して簡単ではない。それでも奈緒子は、今度こそ「本当の自分」を生きることを決めたのだった。