「俺は小説家になる」と申しております

アパート

アパート

東京の中心部から少し離れた場所に立つ「ユニオンアパート」。その建物は時代の流れに取り残されたかのように、古びた外観とともにひっそりと存在していた。外見こそ朽ちかけていたが、そのアパートには様々な人々が住んでおり、彼らの生活が交差する場所でもあった。

102号室には、26歳のOLであるエミが住んでいた。仕事に追われ、友達も遠のき、日々の疲れに押しつぶされるように、エミはここ数ヶ月、誰ともまともに会話することもなく過ごしていた。仕事から帰ると、部屋に鍵をかけ、静かなアパートの一室に閉じこもる。それがエミの毎日だった。

ある日、エミは玄関先に小さな紙が落ちているのを見つけた。何気なく手に取ると、そこには「今夜、屋上で」とだけ書かれていた。誰が置いたのか分からなかったが、不思議な感覚に駆られたエミは、いつもなら無視してしまうところを、なぜかその夜、屋上へ足を運ぶことにした。

夜風が涼しく感じる10月の夜、エミは古びた階段を登り、屋上のドアを開けた。そこには、誰かが照明を持ち込んだかのように、淡い光が辺りを照らしていた。中心には簡素なテーブルと椅子があり、その上にはワインボトルと二つのグラスが置かれていた。そして、テーブルの向かい側に座っていたのは、隣の住人であるダイスケだった。

「来てくれてありがとう、エミさん。」

彼の声は、エミの日常とは違う温かさを持っていた。普段は顔を合わせてもほとんど挨拶を交わさなかった隣人が、こうしてエミを誘うことは予想外だった。エミは少し戸惑いながらも、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。

「どうして、私をここに？」

ダイスケは穏やかに笑いながらワインを注ぎ、エミの質問に答えた。

「いつも見かけてたんだ。仕事から帰ってくる君の姿が、なんだか疲れているように見えたから、少しでもリラックスできる場所を作ろうと思って。」

エミは驚いた。自分が誰かにそんな風に見られていたとは思いもしなかった。彼女は日々の生活に埋もれ、自分自身さえ見失いかけていたのだ。

「屋上って、いい場所だね。こんな風に、静かで、少しだけ非日常的な感じがする。」

ダイスケは笑顔を見せた。

「そうだね、アパートの中でもここだけはちょっとした隠れ家みたいな場所なんだ。何も考えずにただ過ごせる、そんな場所が必要だと思ったんだ。」

二人はしばらくの間、ワインを飲みながら静かに会話を続けた。ダイスケの話し方には押し付けがましさがなく、エミは久しぶりに人と自然に話すことができている自分に気づいた。アパートという小さな世界の中で、こうして誰かと繋がることができるのだと感じると、少しだけ胸が軽くなった。

「エミさん、今夜は特別な夜にしたいんだ。」

ダイスケは突然真剣な表情を浮かべ、エミの目をまっすぐに見つめた。

「特別な夜？どういうこと？」

彼は小さく頷きながら続けた。

「このアパートで暮らしていると、毎日が同じことの繰り返しに感じてしまうことがあるだろう？だけど、今夜は違う夜にしよう。ここをクラブにして、思いっきり楽しむんだ。音楽を流して、飲んで、踊って。仕事や日常のことは全部忘れて。」

エミは驚いたが、同時に心が躍った。こんな提案を受けるのは初めてだった。彼女は思わず笑顔を浮かべた。

「本当にここをクラブにしちゃうの？」

「そうさ、今夜だけのスペシャルナイトだよ。」

ダイスケが持ち込んだ小さなスピーカーから音楽が流れ始め、彼はグラスを掲げて乾杯のジェスチャーをした。

「乾杯！」

エミもグラスを掲げ、二人は夜空の下、軽やかに乾杯をした。音楽のリズムに合わせて、二人は自然と踊り出した。アパートの古びた屋上は、まるで別世界に変わったかのようだった。

「このアパートも悪くないね。特別な場所になるかもしれない。」

エミは、今まで閉じこもっていた自分の殻が少しずつ破れていくのを感じた。この夜、彼女はアパートという小さな世界の中で、日常とは異なる一瞬を楽しんでいた。