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書けない呪縛

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「書けない呪縛」

深夜、静まり返った部屋の中、神谷律はデスクに向かっていた。パソコンの前に座り、指をキーボードの上に置くが、どうしても文字が打てない。白く輝く文書ファイルの画面が、彼を無言で睨んでいるようだった。手が震え、思考が絡みつくようにまとまらない。

「また書けない……」

その言葉が頭を支配していた。律はベテランの小説家で、これまで何冊もヒット作を世に送り出してきた。しかし、ここ数年、特に今になって、彼は「書けない」という呪縛に囚われていた。

かつての彼は、スムーズに物語を紡ぎ出し、書くことに何の迷いもなかった。アイデアは湧き出る泉のようで、言葉は自然に降りてきた。だが今は、どう頑張ってもその泉が干上がっているかのように感じられる。

「締め切りまであと10日……」

カレンダーを見つめ、律は焦りを感じた。編集者からのメールが再び届いている。「進捗はいかがでしょうか?」というお決まりの文言が、律の心をさらに重くした。編集部は律の才能を信じているが、彼自身はそれを疑い始めていた。書けない自分に、作家としての限界が近づいているという恐怖が覆いかぶさる。

律は机の上に置かれた原稿用紙に視線を移した。そこにはいくつものプロット案が書かれているが、どれも中途半端に終わっている。どのアイデアを掴もうとしても、まるで砂のように手のひらから零れ落ちていく。気がつけば、律は自分の作品に対して次第に恐怖心を抱くようになっていた。

「どうしてこんなに書けないんだ……」

律は目を閉じ、深呼吸を試みた。しかし、焦燥感は収まるどころか、ますます強くなっていく。思い出したのは、かつて他の作家たちが抱えていた「書けない呪縛」の話だった。仲間の作家が何度も聞かせてくれたスランプの話は、当時の律にとってはどこか遠い世界の話だった。自分はあんな風にはならない、自分は違う、そう思っていた。

だが、今の律にはその話が痛いほど身に染みてわかる。自分も同じように「書けない呪縛」に囚われてしまったのだ。どれだけ机に向かっても、言葉は浮かんでこない。焦りが募るほど、指先はますます動かなくなっていく。

「何か、違う方法を……」

そう考えた律は、しばらく使っていなかった古いノートを引っ張り出した。パソコンの前では、どうしても頭が固まってしまう。何か変化をつければ、もしかしたら打開策が見つかるかもしれないという淡い期待を抱いていた。

ノートの表紙は擦り切れて、使い込まれた痕跡があった。それは律がデビュー前、まだ無名の頃に使っていたものだった。原稿用紙やノートに手書きで物語を書き出し、何度も何度も書き直しながら、少しずつ作品を形にしていった頃の記憶が蘇ってくる。

「そうだ、あの頃はどうしてこんなに書けたんだろう……」

ペンを握りしめた律は、ページをめくり、新たな一行を綴ろうとした。しかし、その手は震え、頭に浮かんだはずの言葉はまたもや消えていく。まるで、書こうとすればするほど、言葉が律を避けていくようだった。

その時、頭の中にふと浮かんだのは、子どもの頃、初めて物語を書いた瞬間の記憶だった。物語を紡ぐことが楽しくて仕方がなく、何もかもを忘れて書き続けたあの感覚。誰かに見せるためでも、評価を得るためでもなく、ただ純粋に自分のために書いた物語。

「今の俺には、あの頃の気持ちがないんだ……」

そのことに気づいた律は、ふとペンを止めた。いつの間にか、自分は締め切りや読者の期待、出版社の要望に追い詰められ、書くことそのものを楽しむ気持ちを失っていた。かつて物語を書き始めたあの頃の自分が、今の自分の中には存在しないのだ。

律は静かにペンを置き、窓の外を見た。夜明け前の空が、薄く明るみ始めている。焦燥感に駆られ続けるのではなく、一度すべてをリセットしなければならない。そうしなければ、この呪縛から解放されることはないだろう。

律は深呼吸をし、ノートの新しいページを開いた。そして、何も考えずにただ心に浮かんだ言葉を書き出してみた。それは、特に計画もプロットもない一行だったが、彼の心を少しだけ軽くした。書くことそのものを楽しむ気持ちを、少しだけ取り戻せたように感じたからだ。

「完璧じゃなくてもいい……書くことが大事なんだ」

自分にそう言い聞かせながら、律は再びペンを走らせた。書けない呪縛は、まだ完全に解けたわけではない。だが、少しずつ、少しずつその枷が外れていく感覚があった。大切なのは、まず一歩を踏み出すこと。そして、その一歩が新たな物語の始まりとなるのだ。
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