「俺は小説家になる」と申しております

硫黄島（いおうじま）

硫黄島（いおうじま）

潮風が砂に混ざり、海岸沿いを吹き抜ける。隆也（たかや）は、硫黄島の荒々しい風景を前に、ふと目を細めた。この島に立つのは初めてではない。祖父から何度もこの島の話を聞かされて育った隆也は、島に来るたびに重い思い出が胸に迫る。

隆也の祖父、幸雄（ゆきお）は戦時中、この島で戦った一人だった。硫黄島の戦いで日本兵として戦い、生還した数少ない者の一人だ。だが、祖父はそのことを誇ることはなかった。むしろ、戦争の苦しみや亡くなった仲間たちへの思いが、彼の心に深い影を落としていた。

「ここに来るたびに思い出すよ、仲間たちのことを」と、かつて祖父が語った言葉が隆也の耳に残っている。硫黄島はただの戦場ではなく、祖父にとっては命をかけた場所、そして仲間を失った苦しい記憶の地だった。

隆也は砂浜に座り込み、島を見渡した。戦後何十年も経ち、硫黄島は観光地として知られるようになったが、かつてここで繰り広げられた壮絶な戦闘の痕跡は今でも残っている。いくつかのトーチカや地下壕（ちかごう）は今も存在し、彼らがどれだけ過酷な環境で戦ったのかを物語っている。

「祖父も、この場所で何を感じていたんだろう…」隆也はつぶやいた。

風が島の上を吹き抜ける音が聞こえる。砂が舞い上がり、彼の足元に小さな漣（さざなみ）を作る。祖父は生きている間、戦争については多くを語らなかった。家族もそのことについて触れるのを避けていた。だが、隆也が硫黄島に関心を持ち始めたのは、彼が高校生のとき、祖父の部屋で一冊の日記を見つけたからだ。

その日記には、戦地での過酷な日々が淡々と記されていた。食料の不足、水の枯渇、仲間の死。それらの記述に、隆也は当時の祖父の心の葛藤を感じ取った。最も印象に残ったのは、「生きて帰ってはいけないと思っていた」という言葉だった。

祖父は戦場で何度も死と向き合いながらも、なぜか生き残った。だが、その生還が彼にとっては喜びではなく、むしろ深い罪悪感を抱かせたのだ。彼の仲間たちは皆、この島に骨を埋め、祖父だけが生き残った。その事実が、祖父を苦しめ続けたのだろう。

「生き残ったことが、俺の罰なのかもしれない」

そんな祖父の言葉が、隆也の耳に蘇る。

彼は立ち上がり、静かに島を歩き始めた。歩くたびに砂が足に絡みつき、重い足取りとなる。祖父が感じたであろう苦悩を少しでも理解しようと、彼はその風景に自分を重ねてみるが、それは容易なことではなかった。

隆也が向かったのは、島の中央にある慰霊碑だ。ここは、戦死したすべての人々の魂を弔う場所であり、祖父もまた何度もこの場所を訪れていた。

碑の前で立ち止まり、目を閉じる。風の音が遠く、波の音が響いてくる。

「おじいちゃん、俺もここに来たよ」

心の中でそう語りかけると、胸の奥が少し軽くなった気がした。祖父が亡くなってから、この島を訪れることが彼の一つの使命のように感じていた。祖父の戦友たちが眠るこの地で、彼もまた、平和の意味を問いかけることが必要だと思っていた。

戦争の記憶は次第に薄れていく。それは自然なことかもしれない。だが、隆也はその記憶が風化しないよう、自分なりに守っていくことを決意していた。この島で起こったこと、その中で生きた人々の思いを忘れないために。

隆也は慰霊碑に手を合わせ、深く頭を下げた。目を開けると、遠くの海が静かに広がっている。その青さに、少しの希望を感じた。

「生きていくって、簡単じゃないよな」

祖父の言葉が再び胸に響いた。

隆也は立ち上がり、島の風景をもう一度見渡した。ここには多くの痛みと共に、未来への希望もまた存在している。彼はそれを信じ、静かに歩き出した。