「俺は小説家になる」と申しております

霧の中で揺れる世界

 霧の中で揺れる世界

玲奈（れいな）は、今日もいつものように家を出た。駅へ向かう道は毎日変わらない。通り過ぎるコンビニ、信号待ちをする交差点、電柱に貼られたポスター。しかし、彼女にはそれがまるで別世界の景色に見えた。目の前に広がる風景が、透明なガラスの膜を通して見ているかのようにぼやけている。

「私は今、ここにいるのだろうか？」

玲奈はふと、自分が実際に地面を歩いているのかどうか確信が持てなくなる。足元のアスファルトの感触も、周囲の音も、どれもが薄いヴェールの向こう側に存在しているような気がする。すべてがどこか遠く、手の届かない場所にある。

数か月前から、この感覚が始まった。最初は一時的なものだと思っていた。仕事のストレスや疲労による一時的な現象だろうと軽く考えていた。だが、次第にその感覚は彼女の日常に染み込み、離れなくなっていった。

会社のオフィスで玲奈はパソコンの画面を見つめていた。モニターに映し出された文字やグラフが、まるで別人の仕事のように感じられる。自分がこのキーボードを打っているはずなのに、その動作がまるでロボットのように自動的に進んでいく。自分自身がここにいないかのような感覚。

「玲奈、資料の確認できた？」

隣の席に座る同僚が声をかけてきた。玲奈は一瞬、自分の名前が呼ばれたことさえわからなかった。音が遠く、霧の中から聞こえるようにぼんやりとしている。

「…あ、はい、今すぐに。」

彼女は慌てて返事をし、手元の資料に目を落とす。しかしその文字が目に入ってこない。頭の中で何かが切れてしまっているようだった。

この感覚が何度も繰り返される中で、玲奈は次第に自分が現実の世界から切り離されているように感じ始めていた。周りの人々はみな普通に話し、笑い、仕事をしているのに、自分だけがどこか別の場所に閉じ込められているような気がする。目の前にあるものがすべて幻のようで、触れても手がすり抜けてしまいそうな錯覚。

「これが現実なんだろうか？」

玲奈は何度もその問いを自分に投げかけた。しかし、明確な答えは返ってこない。自分が本当にここに存在しているのか、自分が何者なのか、そのすべてが疑わしくなっていく。

ある日、玲奈はカフェで友人と会う約束をしていた。久しぶりの再会に少し胸が高鳴るはずだった。しかし、カフェの席に座り、メニューを眺めても、それが自分にとって何か意味のあることのようには感じられない。店内に漂うコーヒーの香りも、周りの客の会話も、すべてが遠く感じる。

「玲奈、大丈夫？元気なさそうだね。」

友人が心配そうに声をかけてくる。玲奈はいつものように笑顔を作り、返事をしたが、自分の表情すら他人事のように感じられた。自分の顔に自分が存在していない感覚――それが最近、ますます強くなっている。

「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ。」

しかし、その答えは虚ろだった。友人の声や表情もどこか現実味を失っているように見える。まるで玲奈が夢の中にいるかのような、現実の輪郭がぼやけている感覚。それは「離人感」と呼ばれる症状だと、後でインターネットで調べて初めて知った。

帰り道、玲奈は自分が通りを歩いているのか、ただ浮遊しているのか分からなくなっていた。足元の地面の感覚も曖昧で、景色が一層遠く感じられる。自分の体が霧の中に溶け込んでいくような錯覚が広がる。

「私は本当にここにいるのか？」

何度もその問いが頭をよぎる。周囲の建物、通り過ぎる車、歩道を行き交う人々――それらは確かに存在しているはずなのに、玲奈の中では実体のない幻のようだった。誰かが自分を見ているような気配も感じるが、それもまた幻覚にすぎないのかもしれない。

玲奈は手を伸ばして、自分の腕を軽くつねった。だが、その痛みすらもどこか遠くに感じられる。何かが完全に壊れてしまったのだ、と彼女は感じた。この感覚がいつか消えるのだろうか、それともこれが永遠に続くのだろうか。答えが見えないまま、玲奈はただ歩き続けた。

その夜、玲奈はベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。部屋の中の暗闇が一層深く、彼女を包み込んでいるように感じる。目を閉じると、まるで世界が一瞬で消えてしまうかのような恐怖が押し寄せてくる。

「私は……まだここにいる？」

自分自身の存在すらも確かめられない不安が、玲奈の胸を締めつけた。この感覚が続く限り、彼女は現実の世界に戻ることができないのではないか、そう思わずにはいられなかった。誰かに助けを求めるべきなのか、ただ待つべきなのか、その判断すらもつかなくなっていた。

現実と非現実の境界がぼやけ、玲奈は再び自分がどこにいるのか、何をしているのか、何者なのかがわからなくなっていく。目の前の世界は確かに存在しているはずなのに、玲奈にはそれが幻のようにしか見えなかった。

玲奈は最後に、深く息をついて目を閉じた。再び目を開けるとき、彼女はどちらの世界にいるのだろうか。その答えは、まだ誰も知らない。