「俺は小説家になる」と申しております

沈黙の影

「沈黙の影」

桜井雅子は、オフィスの一角で机に向かっていた。毎朝、目覚ましが鳴るたびに心が重くなる。会社に行くのが怖い。職場に足を踏み入れるたびに、全身が緊張で硬直し、胃の中がぐるぐると音を立てる。雅子の上司である田中課長の声が、脳裏に響く。厳しい指摘の言葉とともに、雅子の仕事に対する自信は日々削られていった。

「おまえ、アホか？これができないなんて、小学校からやり直せ！」

田中課長は、常に冷たく、そして容赦なかった。雅子の手元の資料を叩きつけ、彼女を見下ろす目に憐憫の色など微塵もない。何度も繰り返される叱責は、いつしか彼女の自己評価を根底から崩壊させていた。

「やる気あるのか？こんなことで給料もらって恥ずかしくないのか？」

雅子は、何も言えずにうつむいた。彼女がどれだけ努力しても、田中の言葉は一向に柔らかくなることはなかった。まるで無能であるかのように扱われるその日常が、雅子の心を深くえぐっていった。

ある日、田中課長はさらに厳しい態度を見せた。プロジェクトの進捗が思わしくないことに腹を立てた彼は、オフィスの中央で雅子を呼び出した。

「おまえが何度やってもミスばかりだ。プロジェクトから外すぞ。もう辞めたらどうだ？」

周囲の同僚たちは見て見ぬふりをし、誰一人として声をかけてくれる者はいなかった。彼らもまた、田中の怒りの矛先が自分に向かないように、息を潜めていたのだ。雅子はその場で何も言えず、ただ耐えるしかなかった。

「無能なやつがいると、こっちまで迷惑だ。おまえのせいで、みんなイライラしてるぞ。」

そんな言葉が日常化していた。雅子は家に帰ると、シャワーを浴びながら涙を流すことが日課になっていた。彼女は本当に自分が無能なのか、何もできない存在なのか、そう思わざるを得なくなっていた。

その翌週、また新たな屈辱が待っていた。雅子は朝一番に田中から呼び出され、面前でこんなことを言われた。

「すごい優秀な新人が来るぞ。おまえ、もう終わりだな。」

雅子は、その新人の存在に脅かされ、さらなるプレッシャーを感じた。新しい人間が自分の役割を奪い、自分がこの場に必要ないことを突きつけられる恐怖が彼女を覆った。何もかもが自分を否定するように感じられ、雅子は次第に会社に行くのが苦痛でたまらなくなった。

「もう会社来なくていいぞ。もっと優秀な派遣に来てもらうことにしたから。」

田中の冷酷な宣告に、雅子は全身の力が抜けていくのを感じた。足元がぐらつき、目の前が真っ暗になりそうだったが、必死に堪えた。彼女の存在が否定されるたびに、自分の価値が無いもののように感じられた。雅子は何も言えず、ただその場を去るしかなかった。

帰り道、雅子は何度も会社を辞めようと考えた。だが、家族の生活を支えるためには働き続ける必要がある。彼女には逃げる場所が無かった。どうしても辞めることができない現実が、さらに雅子を苦しめた。

「こんな成績でよく会社に来れるな。恥ずかしいと思わないのか？」

その夜、雅子はベッドに横たわりながら自問自答した。自分は本当に無能なのか？努力しても報われない現実が、彼女の心を重くしていた。田中の言葉は彼女の夢にも影響を及ぼし、雅子は夜中に何度も目が覚めた。胸が苦しく、息が詰まりそうになった。

そして、ある日の朝、雅子は決意した。これ以上耐える必要はない。彼女は会社に連絡し、休職を申し出た。自分の心と身体を守るため、彼女はその場から逃げることを選んだのだ。これまでの自分を責め続けた日々から、少しでも解放されたいと願った。

「おまえのせいで会社は損失だ。」

田中の声はもう聞こえない。雅子は、自分を取り戻すための一歩を踏み出した。カウンセリングに通いながら、雅子は自分が受けてきたものが単なる叱責ではなく、パワハラだったことに気づいた。彼女は次第に自分の価値を再認識し、自分を責め続ける日々から脱却しつつあった。

「自分のために生きる。」そう心に決めた雅子は、少しずつ新たな未来に向かって歩き出した。誰かに押しつけられる生き方ではなく、自分のための人生を取り戻すために。雅子はもう、誰にも自分の存在価値を否定させることはなかった。