「俺は小説家になる」と申しております

タイムトゥヘヴン

タイムトゥヘヴン

静かな厩舎の朝、まだ陽が昇る前の冷たい空気が漂う中、一頭の競走馬がじっとしていた。タイムトゥヘヴン、その馬はまだ若いが、すでに多くの期待を背負っていた。細い脚には筋肉がくっきりと浮かび上がり、目はどこか遠くを見つめているようで、決して安易に気を許さない厳しさがあった。

タイムトゥヘヴンはここ数週間、トレンドの中心に立っていた。デビュー戦で鮮やかな勝利を飾り、その後も負け知らずの快進撃を続けていた。競馬ファンたちは彼の名前を口々に唱え、SNSでは「次のレースも勝つに違いない」という声が飛び交っている。

しかし、そんな周囲の熱狂に反して、タイムトゥヘヴンの調教師である田中は静かにその状況を見守っていた。彼は若い頃から競馬一筋の人生を送ってきたが、馬を「勝つための道具」としてだけ見たことはなかった。どの馬にもそれぞれの物語があり、夢があり、そして時には挫折がある。そのことを誰よりも知っている田中にとって、タイムトゥヘヴンはただの期待の星ではなく、一頭のかけがえのない存在だった。

「お前もやっぱり、勝つために生まれてきたんだな…」

田中は、タイムトゥヘヴンの顔を撫でながら呟いた。馬の目には賢さと、どこか孤独を感じさせる光があった。田中はその目に、かつての自分を重ねて見ていたのかもしれない。多くの期待を背負い、プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、その重荷を一人で背負い続ける姿が、どこかタイムトゥヘヴンに似ていたのだ。

次のレースは重要だった。すでに名だたる競走馬たちが集う大きなレースに出場が決まっていたのだ。タイムトゥヘヴンの連勝記録を続けるためには、このレースでの勝利が必要不可欠だった。しかし、田中はそれ以上に気にかけていることがあった。それは、タイムトゥヘヴンがその重圧に耐えられるかということだった。

レース当日。競馬場は熱気に包まれていた。観客席は満員で、誰もがタイムトゥヘヴンの登場を待ち望んでいた。実況の声が高まる中、タイムトゥヘヴンはゆっくりとゲートに入っていった。田中はその様子を見守りながら、心の中で静かに祈っていた。

「大丈夫、お前ならやれる」

ゲートが開き、馬たちは一斉に飛び出した。タイムトゥヘヴンはその中でもひときわ目立っていた。その走りは美しく、まるで風を切るような速さだった。しかし、田中はただその姿に見惚れていたわけではなかった。彼の目は、タイムトゥヘヴンの細かな動き一つ一つを見逃さないようにしていた。息遣い、足の運び、耳の動き。それら全てが田中には何かを語りかけているように思えた。

最後の直線に差し掛かり、タイムトゥヘヴンはさらにスピードを上げた。観客の歓声が一層大きくなり、田中の心臓も高鳴った。しかし、突然タイムトゥヘヴンの動きに異変が起きた。脚が一瞬もつれ、わずかながらもスピードが落ちたのだ。

田中はすぐにその異変に気づいた。観客たちは気づかなかったが、田中には見逃せなかった。その瞬間、田中は確信した。タイムトゥヘヴンは、限界まで自分を追い込んでいたのだ。

結果は惜しくも2着。それでも、タイムトゥヘヴンは最後まで全力で走り抜けた。田中はその姿を見て、満足そうに微笑んだ。レース後、タイムトゥヘヴンの脚には軽い炎症が見られたが、大きな怪我には至らなかった。それでも、田中は一瞬たりとも気を緩めることはなかった。

「頑張ったな、タイムトゥヘヴン」

田中は、厩舎に戻ってきたタイムトゥヘヴンの首を優しく撫でた。馬の目には疲れが見えたが、それでもどこか満足そうだった。勝利ではなく、ただ全力を尽くしたことへの誇りが、そこにはあった。

翌日、タイムトゥヘヴンの2着という結果は、多くの競馬ファンたちに驚きを与えた。SNSでは賛否両論が飛び交い、一部では「過大評価だったのではないか」との声も聞かれた。しかし、田中にはそんな声はどうでもよかった。彼にとって大切なのは、タイムトゥヘヴンが自分の全てを出し切ったこと、そしてその姿を見守ることができたという事実だった。

田中はその日の夕方、厩舎でタイムトゥヘヴンの手入れをしながら静かに語りかけた。「お前は強い馬だよ。誰が何と言おうと、お前がどんな結果を出そうと、それは変わらない。これからも一緒に、できる限りのことをやっていこうな。」

タイムトゥヘヴンは耳をぴくりと動かし、田中の声に応えるように軽くいななき声をあげた。その声はどこか誇らしげで、田中の心にしっかりと響いた。

田中はこれからも、この馬とともに歩んでいくのだろう。勝ち負けを超えた先にある、本当の意味での競走を目指して。