「俺は小説家になる」と申しております

春秋花壇

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今が一番幸せ

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「今が一番幸せ」

人は時々、人生に迷いを感じる瞬間がある。
それは私にとって、三十代半ばの頃だった。
安定した仕事、長く付き合っている恋人、そして小さなマンション。
普通の人が手にするであろう「幸せ」を手に入れていた。
けれど、胸の奥底には、いつも漠然とした不満がくすぶっていた。

「これでいいのか?」
毎朝、鏡の中の自分に問いかける。
仕事に行く準備をする度に、その問いが頭をよぎる。
安定した収入もあり、上司とも良好な関係を築いている。
それでも、満たされない気持ちが消えない。
「このままで、いいのだろうか?」
それが私の本当の気持ちだった。

ある日、職場での会議中に上司から新しいプロジェクトのリーダーを任された。
そのプロジェクトは、今の会社にとって重要なものであり、成功すれば昇進のチャンスもあった。
しかし、同時に多大なプレッシャーを伴うものでもあった。
「現状維持か、それとも挑戦か」
その時の私は迷っていた。
安定した生活を捨ててまで、新しい挑戦に身を投じる必要があるのかと。

恋人の美咲にそのことを話した夜、彼女は優しく微笑んでこう言った。
「あなたが本当にやりたいことをすればいいと思うよ。現状維持は安全だけど、あなたがそれで満足していないのなら、変えてみてもいいんじゃない?」
その言葉は、私の胸に深く響いた。
彼女はいつもそうやって私を応援してくれた。
だが、その時の私は彼女の言葉の真意を完全には理解していなかったのかもしれない。

プロジェクトが始まり、日々の生活は一変した。
終わりの見えない会議、膨大な資料の山、連日の残業。
体は疲弊し、心もすり減っていく。
しかし、それでも私の中には一つの思いがあった。
「この挑戦が、いつか自分の人生を変えるかもしれない」
そう信じて毎日を過ごした。

美咲との時間は減り、デートの約束も次第に先延ばしになっていった。
彼女は何も言わず、私を見守ってくれていたが、その目には寂しさが滲んでいた。
「ごめん、次は必ず時間作るから」
そう言いながらも、約束は果たせず、さらに忙しい日々に埋もれていく。
プロジェクトの進行は順調で、着実に成果を上げていた。
それでも、私の心の中には何かが欠けているような気がしてならなかった。

ある晩、オフィスで一人残業をしていた時、ふと手が止まった。
窓の外を見ると、街の灯りが静かに輝いている。
それは、かつての私が愛した風景だった。
美咲と一緒に眺めた夜景を思い出し、胸が締め付けられた。
「本当に、これでいいのだろうか?」
再びその問いが頭をよぎる。
私は何のために働いているのだろう。
何のために、こんなに必死になっているのだろう。

その時、スマートフォンにメッセージが届いた。
美咲からのもので、短い「会いたい」という言葉が画面に表示されていた。
その瞬間、私は決意した。
「このままじゃいけない」
プロジェクトの成功も、昇進のチャンスも大事だが、
それ以上に大切なものがあることをようやく理解した。
私はすぐに仕事を切り上げ、オフィスを飛び出した。

駅に向かう途中、急に雨が降り出した。
傘を持っていなかった私はびしょ濡れになりながら、美咲の待つカフェへと急いだ。
店内に入ると、美咲はカウンター席に座り、窓の外を眺めていた。
私を見つけると、彼女は驚いたように目を見開いた。
「ごめん、遅くなって」
そう言って、彼女の隣に座った。
美咲は私の濡れた服を見て、少し笑った。
「もう、無理しないでよ」
その言葉に、私は今までの自分を振り返った。

現状維持を選ばず、新しい挑戦を選んだ結果、
私は何かを得た一方で、大切なものを失いかけていたのだ。
「これからは、もう少し自分のペースでやるよ」
そう言いながら、彼女の手を握った。
美咲は優しく微笑み、私の手をぎゅっと握り返してくれた。

それからの日々、私は仕事も生活も見直した。
プロジェクトは他のメンバーに任せ、少しずつ負担を減らしていった。
美咲との時間を大切にし、二人で過ごす瞬間を噛みしめた。
現状維持は安全かもしれないが、それが幸せの全てではない。
挑戦することも大切だが、それだけでは満たされないものがある。
自分の人生を変えるのは、結局は自分自身。
そして、その変化がどんなものであれ、今が一番幸せだと思えるように生きることが大切だと知った。

美咲と過ごす時間の中で、私はようやくその答えを見つけたのだ。
「今が一番幸せ」
そう言える自分を誇りに思う。
これからも、私は自分の選んだ道を歩んでいく。
現状維持ではなく、自分らしく生きるために。
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