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春秋花壇

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しつこいハエ

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 「しつこいハエ」

夏の蒸し暑さが続くある日、優子は一日の終わりに疲れを感じながらリビングのソファに座っていた。窓の外では夕焼けが淡く空を染め、少しだけでも涼しい風が欲しいと窓を開けていたが、それが間違いだったのかもしれない。部屋の中には一匹のハエが迷い込んできた。

「またか…。」

優子はため息をつきながら、テーブルの上に置いていたリモコンでハエを追い払おうとしたが、その小さな生き物は素早く彼女の動きを避け、天井の方へ飛び去ってしまった。ハエが出てくると、まるで無意味な闘いが始まるように感じるのだ。どんなに追い払おうとしても、ハエはしぶとく逃げ続ける。

優子は立ち上がり、棚の上から殺虫剤を取り出した。これで一気に片をつけるつもりだった。缶を振って、噴射の準備を整えた。ハエはまだ天井付近を飛び回っている。優子は目を細めて狙いを定め、ボタンを押して一気に噴射した。

「シュッ!」

白い霧がハエに向かって飛んでいった。だが、ハエはまるでその動きを予測していたかのように、くるりと方向を変えて窓の方へ逃げてしまった。

「くそっ!」

苛立ちが募る。どうしてこうも簡単に逃げられるのか。優子はハエが潜んでいる窓際に近づき、再び殺虫剤を構えた。だが、ハエは目の前でゆったりと羽を休めているようで、まるで彼女を嘲笑っているかのようだ。

「今度こそ!」

優子は再び噴射した。しかし、ハエは素早く飛び立ち、またもや天井の方へ飛んでいった。部屋の中を飛び回るハエに対し、優子はもう一度、そしてまたもう一度、殺虫剤を噴射した。だが、ハエはそのたびに巧妙に逃げ回り、なかなか仕留められない。

時間が経つにつれ、優子の疲れは苛立ちへと変わり、やがて苛立ちは疲労へと戻っていった。彼女はついに殺虫剤を片手に、ソファに倒れ込んだ。天井を見上げると、ハエが悠々と飛んでいるのが見えた。

「もう、どうでもいい…。」

優子は諦めたように目を閉じた。ハエごときにここまで疲れ果てるとは思わなかった。頭の中で、どこかで見た映画のシーンが浮かんでくる。無力感に打ちひしがれた主人公が、最後にはすべてを投げ出してしまう場面だった。

そのとき、ふと、優子は子どもの頃を思い出した。夏休みの田舎の家で、祖父と一緒に蝿叩きを使ってハエを追いかけた日々。あの頃は、ハエを叩くのが楽しくて、しかも祖父はとても上手だった。ハエを一発で仕留めることができる祖父の腕前は、子どもだった優子にとってはまるで魔法のようだった。

「蝿叩き…。」

優子はぼんやりとそうつぶやき、立ち上がった。台所の片隅にしまってあった蝿叩きを思い出し、棚から引っ張り出した。古びてはいたが、まだしっかりと使えそうだった。

「これでどうだ。」

優子は蝿叩きを手に、再びハエを追いかけた。今度は殺虫剤ではなく、手動で勝負することに決めたのだ。ハエは天井を飛び回り、次第に窓際へと移動していく。優子は慎重に距離を詰め、蝿叩きを振り上げた。

「パシン!」

音が響いた。しかし、ハエは逃げ去り、再び窓の外に近いところで羽を休めていた。優子は今度こそ仕留めてやると決心し、さらに近づいていった。

そして、ついにその瞬間が訪れた。ハエが油断したかのように、優子の目の前で止まったのだ。彼女は迷わず蝿叩きを振り下ろした。

「パシン!」

今度こそ、確かな手応えがあった。ハエは倒れ、床に転がった。優子はようやく安堵の息をついた。長い闘いに終止符が打たれたのだ。

優子は蝿叩きを置き、ハエの亡骸を片付けるためにティッシュを取り出した。ふと、その小さな生き物に対して、少しだけ申し訳ない気持ちが芽生えた。彼女が追い詰め、打ち倒した相手は、ただのハエだったのに。

しかし、その瞬間、優子はハエに対する感謝の気持ちも感じていた。あの小さな闘いが、彼女に祖父との思い出を呼び起こさせ、そして少しだけ笑顔を取り戻させてくれたからだ。

「ありがとうね。」

優子はそうつぶやきながら、ハエをそっとゴミ箱に捨てた。そして、ようやく穏やかな夜が訪れた。










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