ありがとうの詩

春秋花壇

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ごめんなさい。そして、ありがとう

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「ごめんなさい。そして、ありがとう」

朝、台所のテーブルの上に置かれたコーヒーカップを見つめながら、涼子は深くため息をついた。47年――息子を産んでから、長くもあり、短くも感じる年月だった。

シングルマザーとして生きる覚悟を決めたのは、息子・直人が生まれる前だった。父親には頼れない。頼るつもりもなかった。けれど、その決意だけで人生を切り開くには、現実はあまりにも厳しかった。

直人が小学校に上がる頃には、涼子の心も体もボロボロだった。朝から晩まで働き詰め、帰宅すると直人の明るい笑顔が出迎えてくれる。それがどれほど救いだったかを思い返すと、胸が締め付けられるようだった。

「あの頃、私はあなたの母親ではなく、ただの疲れ果てた女だったね。」

涼子は心の中で語りかけた。

直人はとても優しい子だった。幼い頃から空気を読むことに長けていて、涼子が涙を流すとそっと近づいて、「僕はお母さんを幸せにするために生まれてきたんだよ」と言ってくれた。その言葉がどれほど涼子を支えたか、本人には伝わっているだろうか。

けれど、その優しさに涼子は甘えすぎてしまった。直人が小学生の頃、仕事のストレスや生活の苦しさから逃げるように家を出てしまった日々があった。

「あなたを一人にしてしまったあの日々を、どう償えばいいのか、今でもわからない。」

涼子はつぶやいた。直人がどんな思いでその時期を過ごしたのか、問い返すこともできなかった。

中学生になった直人はどこか大人びていた。思春期の反抗も見せず、むしろ涼子の心配ばかりしていた。

「お母さん、大丈夫?無理しないで。」

その言葉に、涼子はかえって追い詰められた気がした。「母親としての役割を果たせていない」という罪悪感が、彼女をますます不安定にさせたのだ。

「役割が逆だよね。」

直人の優しさに依存しすぎたことを、涼子は認めざるを得なかった。直人が家を出るタイミングで独立していったことが、かえって彼の強さを証明していた。

現在、直人は都会で暮らし、結婚して子供もいる。頻繁に連絡を取るわけではないが、それでも直人が時折送ってくれる「元気でね」という短いメッセージに、涼子は大きな安堵を感じていた。

ある日、直人が家族を連れて久しぶりに帰省した。リビングで小さな孫娘がはしゃぐ声を聞きながら、直人はふと涼子の方を見て言った。

「お母さん、僕が子供の頃、ちゃんと僕を愛してくれてたよね。」

その言葉に涼子は驚き、同時に涙があふれた。

「愛してた。でも、あなたに甘えてばかりだった。ごめんなさい。」

直人は微笑みながら言った。

「僕が幸せにしたかったのは、お母さんだけじゃない。僕自身も、お母さんを幸せにすることで幸せだったんだ。」

その言葉に、涼子の心の中で長年抱えていた罪悪感が、少しだけ軽くなった気がした。

夜、直人たちが帰った後、涼子は静かな部屋の中でふとつぶやいた。

「生まれてきてくれてありがとう。そして、生きていてくれてありがとう。」

その言葉は、空気の中に静かに溶けていったが、確かに直人へと届いているはずだと思えた。涼子はその晩、久しぶりに穏やかな眠りについた。







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