ありがとうの詩

母の決意

「母の決意」

日曜の朝、薄曇りの空が広がる中、美雪は冷えた部屋でぼんやりと天井を見上げていた。ふと目をやった先のカレンダーには、赤い丸印が付けられている。今日は息子の信也が退院してくる日だ。

40日間、精神科の閉鎖病棟に入院していた息子。彼が病院へ運ばれた日のことを、美雪は今でも鮮明に覚えていた。薄暗い部屋の隅で力なく座り込み、「もう生きていたくない」と呟いたあの姿。その言葉を聞いた瞬間、美雪の中で何かが音を立てて崩れた。

正午過ぎ、迎えに行った病院で信也と対面した。やつれた顔の中に、少しだけ張りを取り戻した表情が見える。病院のスタッフに丁寧にお礼を述べ、二人でタクシーに乗り込んだ。

「どう？体調は。」

美雪の問いかけに、信也は短く「まあまあ」と答えた。それ以上は話が続かず、車内は静かだった。窓の外に広がる町並みがゆっくりと流れていく。

家に到着すると、信也は一言も言わず自分の部屋にこもった。美雪はリビングでコーヒーを淹れながら、そっとため息をついた。

「また、ここからだ。」

信也の状態が安定するまで、無理に何かをさせようとは思わない。しかし、美雪の胸には一つの強い思いがあった。

夕方、美雪は信也の部屋のドアをノックした。

「ご飯できたわよ。一緒に食べよう。」

応答はなかったが、しばらくしてドアが開き、信也が顔を見せた。テーブルには彼の好きだった鶏肉の照り焼きと、野菜たっぷりの味噌汁が並んでいる。

「退院おめでとうって感じ？」

信也が皮肉めいた口調で言う。

「そうね、退院おめでとう。それと、生きて帰ってきてくれてありがとう。」

その言葉に信也は一瞬驚いたような顔をしたが、何も言わず箸を取り、黙々と食べ始めた。美雪も黙って食事を続けた。

食事を終えたあと、美雪は信也の部屋を訪れた。散らかった机の上には、未完成のプラモデルが置かれている。

「少し話せる？」

信也は困ったような顔をしたが、美雪を部屋に入れた。

「これからどうしたい？」

彼女の言葉に、信也はしばらく黙り込んだ。

「正直、何もしたくない。でも、このままじゃいけないのもわかってる。」

その言葉を聞いて、美雪は少しだけ安堵した。

「いいのよ、焦らなくて。ただ、一つだけお願いがあるの。」

信也は黙って母の言葉を待った。

「生きていてほしい。それだけで、私は十分だから。」

美雪の声は震えていたが、力強さがあった。

「それと、部屋にこもりっぱなしにならないように、少しずつ外に出る練習をしない？」

信也は小さく頷いた。

次の日から、美雪と信也は一緒に近所の公園へ散歩に出ることにした。最初は人目を気にする信也だったが、徐々に少しずつ外の空気に慣れていった。

「部屋にこもりたい気持ちはわかるけど、外にはもっと面白いことがあるのよ。」

美雪の言葉に、信也は苦笑しながらも、「そうかもね」と応じた。

数か月後、信也はアルバイトを始めることを決意した。美雪はその背中を見送りながら、小さな一歩を心から喜んだ。

「生きてさえいれば、道はきっと続いていく。」

そう信じる母の決意は、これからも揺るがない。信也とともに、少しずつ前に進むために。