ありがとうの詩

春秋花壇

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途方の中で

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「途方の中で」

病院の会議室は、無機質な白い光で照らされていた。机の上に並べられた書類たちは彼女にとって見知らぬ言語のようだった。主治医、生活保護担当者、訪問看護師が順番に意見を述べる中、彼女はひたすらその言葉を聞くしかなかった。

「お母様、このまま入院を続けても、メリットはほとんどありません。」
主治医の冷静な声が部屋に響く。

「しかし……家で一緒に暮らすなんて、そんなこと、今の状態ではとても無理です!」
彼女の声は震えていた。息子の行動は予測不能で、何をきっかけに暴れるかわからない。自宅での生活は危険が伴うとしか思えなかった。

「だからこそ、緊急時の連絡先や相談先を明確にしておきましょう。」
生活保護の担当者が無表情で言葉を続ける。
「訪問看護の支援も受けられる体制を整えます。金銭的な管理についても支援を受けられるようにしましょう。」

しかし、その提案が具体的にどう彼女と息子を救うのか、彼女には想像できなかった。訪問看護も限られた時間しか来てくれない。夜中に息子が錯乱したら、誰が助けてくれるのだろうか?

「私が全部、責任を負うんですか?」
彼女はついに問いかけた。その声には絶望がにじんでいた。

訪問看護師が口を開く。
「お母様、私たちはできる限りのサポートをします。ただ、最終的にはご家族が彼の一番の支えになります。」

「支え……?」
彼女は呆然とその言葉を繰り返した。息子が深夜に窓から飛び降りようとしたことがあった。痰を飲み込み、自殺を図ろうとしたこともある。そのたびに彼女は死の恐怖と向き合わされてきた。

「もし、息子が……本当に死んでしまったら、どうすればいいんですか?」
その問いに対し、誰も即答しなかった。部屋に静寂が訪れた後、主治医が静かに口を開いた。

「私たちは、患者さんの生命を守るために最善を尽くします。しかし、すべてを防げるわけではありません。」

その言葉に、彼女は心の中で叫びたくなった。誰も責任を取らない。誰も未来を保証してくれない。すべてが自己責任にされる世界の中で、彼女は何を信じればいいのだろうか?

家に戻った後、彼女はキッチンテーブルに突っ伏して泣いた。窓の外では夕焼けが広がり、オレンジ色の光が薄暗い部屋を照らしている。

「どうすればいいの……」
息子の部屋から聞こえる物音に、彼女は思わず身震いした。

あの日、彼が痰を飲み込もうとしていた場面が脳裏に浮かぶ。無理やりそれを止めたことで、彼はますます攻撃的になった。次は何をしでかすか、予測がつかない。犯罪でも起こしたら、彼女が責任を負うことになるのだろうか?

「息子の未来を守りたいだけなのに……」
その思いは、彼女を押しつぶすだけだった。

ある夜、彼女は耐えきれず、生活保護の担当者に電話をかけた。

「どうして私だけが、こんなにも責任を背負わなきゃいけないんですか?こんな状況で、どうやって彼を支えろと言うんですか?」
声が裏返り、涙が止まらなかった。

担当者は一瞬沈黙した後、言った。
「お母様、それが現実です。ですが、支援を受けながら、一歩ずつ進むしかありません。」

その言葉は正論だったが、彼女には冷たく感じられた。「一歩ずつ」という表現が、どれほど現実の重さを無視しているか、彼女には痛感されるだけだった。

夜が深まり、彼女は息子の寝室をそっと覗いた。彼は丸まって眠っていたが、眉間に深い皺が寄っていた。何か悪夢を見ているのだろうか。

「息子が安心して眠れる日が来るのだろうか?」
彼女は静かに祈った。しかし、その祈りが神に届くのか、自分でもわからなかった。ただ、「ああああ」と心の中で叫ぶしかなかった。

彼女は再びベッドに横たわり、目を閉じた。しかし、心に安らぎが訪れることはなかった。彼女の戦いは、終わりの見えない迷路の中に続いていくように思えた。

夜の静寂の中で、彼女はただ耐えるしかなかった。
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