ありがとうの詩

春秋花壇

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香りの記憶

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「香りの記憶」

自助グループのミーティング場に足を踏み入れると、いつもそこにある香りが迎えてくれる。あの香りは、コーヒーだった。どこの会場に行っても、決して豪華なものではなかったけれど、必ずその場所にはネスカフェエクセラの瓶が置かれていた。多くの人がコーヒーを注いで、穏やかな時間を過ごす。その香りに包まれると、なんとも言えない安堵感が広がり、心が温かくなるのだった。

私はその香りを、今でも忘れることができない。何も特別なことがなくても、あの香りを感じるだけで、「ああ、今日も無事に乗り越えた」と思えた。それがどんなに小さな勝利でも、私にとっては大きな意味を持っていた。

最初にこのグループに参加したとき、私は心が疲れ切っていた。仕事に追われ、生活に余裕がなく、毎日のように自分が生きているのか、ただ流されているだけなのか、分からなくなることが多かった。そんなとき、友人が紹介してくれたのが自助グループだった。

「何か変えたくて、でもどうしたらいいのか分からないんだよね」—そんな私に、友人は静かに言った。「そこで自分を取り戻せるかもしれないよ。少なくとも、ここでは誰もが同じように苦しんでいて、みんな支え合っているから。」

最初は半信半疑だった。でも、実際に参加してみると、そこには見たこともないような安心感があった。自分と同じような悩みを抱えた人たちと顔を合わせて、経験を共有し、時には励まし合い、時にはただ黙って座ること。それがどれだけ私にとって大切な時間だったのか、今になって強く感じる。

そのグループでは、ミーティングの合間に必ずコーヒーが提供されていた。それは特別なものでなく、ただのインスタントコーヒーだった。でも、どこに行ってもその香りが広がっていた。お湯を注いだ瞬間に漂う、その温かくて少し苦い香り。それを一口飲むと、どんなに忙しくて、心が疲れていても、どこかホッとする気持ちになった。

「今日もやっと終わった。」ミーティングが終わった後、私はコーヒーをカップに注ぎながら思うことが多かった。どんなに大変でも、その日を無事に過ごし、何とか自分を乗り越えた。それがどれほど小さな一歩でも、進んでいる実感を得ることができた。それが、あの香りがもたらしてくれるものだった。

そして、コーヒーの香りが教えてくれたのは、生活の中での小さな勝利を大切にすることだった。多くの人がそれぞれの悩みを抱えていて、それにどう立ち向かうかは人それぞれだけれど、少なくともあの場所では、どんな苦しみも一人ではないと感じられた。私は一人で生きているわけではなく、同じような状況にいる誰かとつながっている。そして、そのつながりの中で、少しずつでも心が癒され、前に進む力をもらっていた。

私は何度も自分を責め、何度も立ち止まった。でも、自助グループに通い、あの香りに触れることで、少しずつ自分のペースを取り戻していった。最初はそれがうまくいかなくても、少しずつ心が軽くなり、自分を許すことができるようになった。

今日は、久しぶりにその自助グループの場所に足を運んだ。グループのメンバーは少し変わっていたが、あの香りは変わらずに漂っていた。コーヒーを注いだカップを手に、私は静かにその香りを深く吸い込んだ。あの頃の自分を思い出し、今の自分に感謝の気持ちを抱きながら、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。

「今日もまた、前に進めた。」そう心の中でつぶやきながら、私はグループのメンバーたちと共にその日を過ごすのだった。

あのコーヒーの香りが、私に教えてくれたことは、決して無駄ではなかった。どんなに小さな一歩でも、それを積み重ねていくことで、私は少しずつ自分を取り戻していった。そして、その香りに包まれるたびに、私は強くなったような気がするのだった。







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