ありがとうの詩

春秋花壇

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心を鬼にすること

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「心を鬼にすること」

1週間前の面談で、私は主治医にお願いをした。「医療保護入院を解除してください。」その瞬間、心臓が高鳴った。こんなことを言うのは、私はどうしても勇気が要ったからだ。でも、そのお願いは、息子の未来を少しでも良くするために必要なことだと信じていた。主治医は少し黙って考えた後、答えた。

「あなたがその決断をするのは、非常に重いことです。でも、もしそれが息子さんのためだと考えるのであれば、私たちはその決断を尊重します。」

その言葉に、私は一筋の光を見た気がした。しかし、その後の出来事は私を更に迷わせ、心を揺さぶった。

面談から数日後、息子の生活保護担当の係の人から電話がかかってきた。電話越しに聞こえた彼女の言葉は冷静でありながらもどこか心配そうで、私の心をざわつかせた。

「お母さん、あなた自身が抱え込みすぎていることが、息子さんにとって逆効果かもしれませんね。今はお互いに自立を目指すべき時だと思います。」

その言葉は、まるで私が犯した過ちを指摘されたように感じた。私はずっと息子の面倒を見てきた。彼が病気になったときも、つらいときも、常に支えてきたつもりだった。しかし、どうやらそれが私にとっても、息子にとっても毒になってしまっていたのだろう。

「私が抱え込んでしまうから、あの子はダメになってしまうのかもしれない。」生活保護担当者が続けて言った言葉は、私の胸に刺さった。「だから、今は心を鬼にしてお互いの自立・自律を目指したいんです。よろしくお願いします。」

その言葉を聞いた瞬間、私は言葉を失った。心を鬼にする? そんなこと、できるわけがないじゃないか。息子が心の中でどれほど頼っているのか知っているからこそ、そんな冷徹な決断をするなんて、私にはできるはずがなかった。

私は電話を切った後もその言葉が頭の中でぐるぐる回り続けた。あっちではいい子、こっちでもいい子。私はどちらの立場にも立ちたくないし、どちらの人間にもなりたくなかった。共依存症という言葉が浮かんだ。自分を守るために息子を引き寄せて、また同じように彼の足枷となるのが怖かったのだ。

そして次の日、事務所から転院先の病院の情報が送られてきた。17日には息子は別の病院に転院することが決まった。福祉事務所が調整してくれた病院だが、息子は絶対に嫌だと言った。

「もう一度、20年近く通った病院で新しい人間関係を築いて、また環境に慣れていくなんて無理だ。」彼はそのように言って、頑なに拒否した。その気持ちはわかる。20年という時間が彼にとってどれだけの重みを持つものか、私にも理解できる。

「16日までに私がどうしたいかを決めます。」息子はその言葉を残して病室を出て行った。

そして、私はその一言がどこまで本気なのかも確かめられず、ただただ途方に暮れた。私はいったい、どうしたいのだろう? 彼が自立するために、心を鬼にして私たちが距離を取らなければならないことはわかっている。息子が自分の力で立ち上がるためには、私が過保護にしてしまっている部分を取り払わなければならない。

だが、そうすることで彼がどれほど傷つくかを考えると、私は心が痛んだ。彼を信じて見守ることができるだろうか? 私が「鬼」になった時、息子がどれほど苦しむのかを思うと、どうしてもその決断ができずにいた。

病院での面会の後、息子が一人で過ごしている時間が増えていった。私は何度も、次にどうすべきかを考えたが、答えが出ない。それでも、心の中で、いつまでも一緒にいることが彼を弱くさせるのではないかという思いが強くなっていった。

「どうしたらいいのか。」私は一人、自問自答を繰り返しながら、答えを見つけようとしていた。息子を守るためには、心を鬼にするしかないのだろうか。それとも、私は彼に寄り添い続けるべきなのか。どちらを選んでも、きっと間違った方向に進んでしまうのではないかという恐怖が、私を何度も突き動かした。

16日までの時間は、まるで砂時計が落ちるのを見つめているようだった。どんな選択をしても、その結果が私を追い詰めることはわかっていた。けれど、最後には息子が自分で歩む力を身につけるためには、どこかで手を放さなければならないのだと感じていた。

私の中で、心を鬼にする決断が少しずつ現実味を帯びてきた。その時、私は初めて自分が息子にとって本当の意味で支えになりたいと思うようになった。そしてその支え方が、今はどんな形であっても、息子を試練に向かわせることになるのだということを受け入れるしかなかった。






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