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11月11日
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「11月11日」
11月11日。この日付が胸を締めつける。息子が精神病院の閉鎖病棟に医療保護入院した日だ。冷たい雨が降っていたのを覚えている。玄関先で息子は「行くよ」とだけ言い残し、タクシーを呼んで車に一人で乗り込んだ。
私は家の中でそれを見ていた。彼の姿が見えなくなった瞬間、すぐにカーテンを閉めた。
「行かなければならなかった」
心の中で何度も繰り返した。それでも体は動かなかった。
息子の診断名は統合失調症。34年前から症状が現れ始め、次第に日常生活もままならなくなった。最初は彼を理解しようと必死だった。どんな言葉が彼を救えるのか、どんな態度が彼を安心させるのか。
けれど、私にはその答えが見つけられなかった。時間が経つにつれて、私の関わり方は極端になった。過干渉か、過保護か、あるいはネグレクトか。ちょうどその日の朝も、私の言葉が彼を傷つけた。
「いつまでこんなことを続けるつもりなの?」
息子は何も言わずに私を見つめ、顔を伏せた。その沈黙が答えだった。
病院からの連絡は突然だった。
「急性期の症状がひどく、早急に入院が必要です。ただし、医療保護入院には保護者の同意が必要です。」
保護者、つまり私だ。
電話を切った後、手が震えた。頭の中でいくつもの場面がよぎる。息子が病院で鉄格子の中に閉じ込められる姿。彼の怒りや悲しみを浴びる自分。周囲から非難される自分。
私は逃げた。
病院から再び電話が鳴ったが、出ることができなかった。代わりに生活保護の担当者が手続きを進めてくれた。
夜、息子がいない部屋にぽつんと座っていた。耳には雨音が響いている。
「私は逃げたんだ……」
その言葉が何度も頭をよぎる。彼を助けたいと思っていたはずなのに、最後の一線を越える勇気がなかった。私は彼を鉄格子の中に送り出し、家の中でぬくもりのある毛布に包まれている。それがたまらなく情けなかった。
数日後、病院から報告が届いた。
「息子さん、入院してから落ち着いていますよ。新しい薬が効き始めたようです。」
電話の向こうから聞こえる看護師の穏やかな声に、わずかな安堵を覚える。しかしその安堵もすぐに消えた。息子が鉄格子の中で、母の姿を探していたのではないかという思いが頭をよぎる。
それから私は何度も自問した。あの時、どうするべきだったのか。彼の病気が何を必要としていたのか。そして、私自身がどうしてあの場に立ち会えなかったのか。
「私が行かなかったことで、息子が何を感じたのか?」
その答えを知るのは怖い。けれど、その答えが私を逃がさない。
次に息子に会う日はまだ決めていない。ただ、私が彼の病院のドアを開けるその日まで、もう逃げないと誓った。それがどれだけの苦しみを伴おうとも。
息子が再び自分の足で外に出られる日が来るまで、私も変わらなければならない。あの日、彼が一人で乗り込んだ車の後ろ姿を思い出すたび、その思いが強くなる。
彼を守りたい。そして、自分自身も。
雨音が止んだ静かな夜、私はその誓いを胸に刻み込んだ。
11月11日。この日付が胸を締めつける。息子が精神病院の閉鎖病棟に医療保護入院した日だ。冷たい雨が降っていたのを覚えている。玄関先で息子は「行くよ」とだけ言い残し、タクシーを呼んで車に一人で乗り込んだ。
私は家の中でそれを見ていた。彼の姿が見えなくなった瞬間、すぐにカーテンを閉めた。
「行かなければならなかった」
心の中で何度も繰り返した。それでも体は動かなかった。
息子の診断名は統合失調症。34年前から症状が現れ始め、次第に日常生活もままならなくなった。最初は彼を理解しようと必死だった。どんな言葉が彼を救えるのか、どんな態度が彼を安心させるのか。
けれど、私にはその答えが見つけられなかった。時間が経つにつれて、私の関わり方は極端になった。過干渉か、過保護か、あるいはネグレクトか。ちょうどその日の朝も、私の言葉が彼を傷つけた。
「いつまでこんなことを続けるつもりなの?」
息子は何も言わずに私を見つめ、顔を伏せた。その沈黙が答えだった。
病院からの連絡は突然だった。
「急性期の症状がひどく、早急に入院が必要です。ただし、医療保護入院には保護者の同意が必要です。」
保護者、つまり私だ。
電話を切った後、手が震えた。頭の中でいくつもの場面がよぎる。息子が病院で鉄格子の中に閉じ込められる姿。彼の怒りや悲しみを浴びる自分。周囲から非難される自分。
私は逃げた。
病院から再び電話が鳴ったが、出ることができなかった。代わりに生活保護の担当者が手続きを進めてくれた。
夜、息子がいない部屋にぽつんと座っていた。耳には雨音が響いている。
「私は逃げたんだ……」
その言葉が何度も頭をよぎる。彼を助けたいと思っていたはずなのに、最後の一線を越える勇気がなかった。私は彼を鉄格子の中に送り出し、家の中でぬくもりのある毛布に包まれている。それがたまらなく情けなかった。
数日後、病院から報告が届いた。
「息子さん、入院してから落ち着いていますよ。新しい薬が効き始めたようです。」
電話の向こうから聞こえる看護師の穏やかな声に、わずかな安堵を覚える。しかしその安堵もすぐに消えた。息子が鉄格子の中で、母の姿を探していたのではないかという思いが頭をよぎる。
それから私は何度も自問した。あの時、どうするべきだったのか。彼の病気が何を必要としていたのか。そして、私自身がどうしてあの場に立ち会えなかったのか。
「私が行かなかったことで、息子が何を感じたのか?」
その答えを知るのは怖い。けれど、その答えが私を逃がさない。
次に息子に会う日はまだ決めていない。ただ、私が彼の病院のドアを開けるその日まで、もう逃げないと誓った。それがどれだけの苦しみを伴おうとも。
息子が再び自分の足で外に出られる日が来るまで、私も変わらなければならない。あの日、彼が一人で乗り込んだ車の後ろ姿を思い出すたび、その思いが強くなる。
彼を守りたい。そして、自分自身も。
雨音が止んだ静かな夜、私はその誓いを胸に刻み込んだ。
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