ありがとうの詩

春秋花壇

文字の大きさ
上 下
50 / 147

11月11日

しおりを挟む
「11月11日」

11月11日。この日付が胸を締めつける。息子が精神病院の閉鎖病棟に医療保護入院した日だ。冷たい雨が降っていたのを覚えている。玄関先で息子は「行くよ」とだけ言い残し、タクシーを呼んで車に一人で乗り込んだ。

私は家の中でそれを見ていた。彼の姿が見えなくなった瞬間、すぐにカーテンを閉めた。

「行かなければならなかった」

心の中で何度も繰り返した。それでも体は動かなかった。

息子の診断名は統合失調症。34年前から症状が現れ始め、次第に日常生活もままならなくなった。最初は彼を理解しようと必死だった。どんな言葉が彼を救えるのか、どんな態度が彼を安心させるのか。

けれど、私にはその答えが見つけられなかった。時間が経つにつれて、私の関わり方は極端になった。過干渉か、過保護か、あるいはネグレクトか。ちょうどその日の朝も、私の言葉が彼を傷つけた。

「いつまでこんなことを続けるつもりなの?」

息子は何も言わずに私を見つめ、顔を伏せた。その沈黙が答えだった。

病院からの連絡は突然だった。

「急性期の症状がひどく、早急に入院が必要です。ただし、医療保護入院には保護者の同意が必要です。」

保護者、つまり私だ。

電話を切った後、手が震えた。頭の中でいくつもの場面がよぎる。息子が病院で鉄格子の中に閉じ込められる姿。彼の怒りや悲しみを浴びる自分。周囲から非難される自分。

私は逃げた。

病院から再び電話が鳴ったが、出ることができなかった。代わりに生活保護の担当者が手続きを進めてくれた。

夜、息子がいない部屋にぽつんと座っていた。耳には雨音が響いている。

「私は逃げたんだ……」

その言葉が何度も頭をよぎる。彼を助けたいと思っていたはずなのに、最後の一線を越える勇気がなかった。私は彼を鉄格子の中に送り出し、家の中でぬくもりのある毛布に包まれている。それがたまらなく情けなかった。

数日後、病院から報告が届いた。

「息子さん、入院してから落ち着いていますよ。新しい薬が効き始めたようです。」

電話の向こうから聞こえる看護師の穏やかな声に、わずかな安堵を覚える。しかしその安堵もすぐに消えた。息子が鉄格子の中で、母の姿を探していたのではないかという思いが頭をよぎる。

それから私は何度も自問した。あの時、どうするべきだったのか。彼の病気が何を必要としていたのか。そして、私自身がどうしてあの場に立ち会えなかったのか。

「私が行かなかったことで、息子が何を感じたのか?」

その答えを知るのは怖い。けれど、その答えが私を逃がさない。

次に息子に会う日はまだ決めていない。ただ、私が彼の病院のドアを開けるその日まで、もう逃げないと誓った。それがどれだけの苦しみを伴おうとも。

息子が再び自分の足で外に出られる日が来るまで、私も変わらなければならない。あの日、彼が一人で乗り込んだ車の後ろ姿を思い出すたび、その思いが強くなる。

彼を守りたい。そして、自分自身も。

雨音が止んだ静かな夜、私はその誓いを胸に刻み込んだ。







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...