ありがとうの詩

春秋花壇

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無事でありますように

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無事でありますように

寒さが深まる中、秋の終わりを迎えようとしていた。枯れ葉が舞い散る音が、ひとしずくずつ耳に届く度に、心の中がざわつく。由美は電話を手に取り、再度息子の名前をダイヤルした。電話がコール音を響かせるが、いつものように応答はない。何度か呼び出し音を鳴らしてから、再び受話器を置き、ため息をついた。彼女の心の中に不安の影が落ちる。

精神病院の閉鎖病棟に入院している息子、亮太。彼が再び不安定になり、心の中で迷子になっているのではないかと、由美は胸が痛む。電話をかけても、メールを送っても、返事はない。以前と違って、携帯を使って連絡を取ることさえもままならない彼の状況に、由美は何度も心配を募らせてきた。

「また、拘束されているんじゃないか…」

そう思いながらも、どうしても息子に手を差し伸べることができずにいる自分に、嫌悪感を覚えた。もしものことがあれば、どうすればいいのか、何かできることがあればと考えるが、結局は無力感に苛まれるばかりだった。

以前、彼女が保険の外交員をしていた頃、ある高齢の女性と出会ったことを思い出す。そのおばあちゃんは、いつも明るくて、どこか人懐っこい笑顔を絶やさなかったが、ある日、ポツリとこぼした言葉が心に残った。

「最近、息子が年を取って心配で心配で」

その言葉を聞いたとき、由美はその深い意味をすぐに理解できなかった。どれほど年齢を重ねても、親にとっては子どもはいつまでも心配の種なのだと、しみじみ感じることはなかった。それでも、由美はそのとき、彼女に対して「お子さんはおいくつですか?」と聞いた。

「この前、還暦を迎えました」

その言葉に、由美は驚いた。おばあちゃんが心配している息子は、すでに60歳を超えているのだ。還暦を迎えた息子が、今でも母親を心配させる存在なのだと。その瞬間、由美はふと気づいた。親というのは、子どもが年齢を重ねても、どんなに立派に成長しても、心のどこかでいつまでも守らなければならない存在として、見守り続けるものなのだと。

その日から、由美は何度もそのおばあちゃんの言葉を思い返すようになった。そして、亮太が精神的に不安定になってからは、その思いがより強く感じられるようになった。息子がたとえどんなに成長し、成熟しても、母親として、彼が苦しむ時に何もできない自分を責める気持ちは変わらない。年齢に関係なく、彼を心配する気持ちが常に胸の中で膨らんでいくのだ。

「無事でありますように」

由美は、再度電話をかけた。今度はメッセージを送ることにした。彼女の手が震えながらも、文字を打ち込む。

『亮太、どうか無事でいてください。何かあったら、すぐに教えてね。お母さんは、あなたのことをいつでも心配しているよ。』

それでも、何も返信が来ない。彼女は再び携帯を手に取り、病院の番号を検索した。病院には、たしか彼が今入院していることを知らせるための緊急連絡先がある。だが、電話をしても、担当の看護師は不在で、病院側からも明確な返答はない。これがどれほど不安なことか、彼女自身も言葉にすることができなかった。

彼女は部屋の隅に置かれた古い写真立てを見つめた。その中には、亮太が幼い頃に撮影した写真が入っていた。まだ無邪気で、笑顔が溢れていた彼。そういえば、幼少期の亮太はいつも元気で、家の中を駆け回っていた。母親を驚かせようとするその顔は、いつも愛らしく、親バカの由美にとっては宝物だった。

だが、今の亮太はどこにいるのだろうか。どれほど苦しんでいるのだろうか。何度も自問自答を繰り返す由美の心に、焦燥感が募っていく。電話をかける度に、返事がない。病院からの連絡もない。

「無事でありますように」

由美は静かに呟いた。その言葉は、もはや祈りのようだった。息子が無事であって欲しい。その一心で、彼女は今、ただじっと待つしかなかった。どんなに苦しくても、心の中では息子が自分に向かって笑顔を見せてくれる日を信じ続けている。

彼女の祈りが届くことを願いながら。






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