ありがとうの詩

息子の小説

「息子の小説」

ある日の夕方、私は偶然にも息子の名前を携帯小説サイトで見つけた。医療保護入院で精神病院の閉鎖病棟にいる彼が、投稿した小説だった。

タイトルは「光のない空」。更新されたばかりらしく、文字数は5000文字を超えている。迷わずページを開き、内容を読み始めた。

文章はどこか淡々としているが、息子特有の語彙が散りばめられていた。登場人物たちは現実と非現実が混在するような奇妙な世界に生きており、彼らの会話は矛盾と哲学の狭間を彷徨っている。

「これは妄想だろうか？それとも創作として書いているのだろうか？」

読み進めるうちに、私はどちらとも判断できなくなった。彼の小説の中には、現実に存在するはずのない言葉が溢れていた。神話のようでありながら、どこか息子自身の心の叫びのようにも感じられる。

物語は、希望の欠片を探し続ける主人公の旅路が描かれているが、最後には光を見つけることなく終わってしまう。祈りも感謝も感じられない結末に、私は胸が締めつけられる思いがした。

「彼は今、どんな気持ちでこれを書いたのだろう？」

その問いが頭から離れなかった。彼が閉鎖病棟の中で、孤独とどう向き合い、どんな感情を抱いているのか。小説を通して安否を確認できたのは確かだが、彼の心の中にある闇は、私には計り知れない。

それでも、私は心のどこかで息子の言葉に耳を傾けたような気がした。小説を通して、彼は何かを伝えようとしているのかもしれない。

数日後、病院から連絡があった。差し入れを持っていく許可が出たとのことだ。私は急いで彼の好きな本やノート、そして小さなスナック菓子を買いそろえ、面会時間に合わせて病院を訪れた。

閉鎖病棟の面会室で待つ間、息子の投稿した小説のことを考えていた。もしかすると、直接会ったら、あの物語について聞いてみることができるかもしれない。しかし、どんな言葉を選べばよいのか、答えは見つからなかった。

やがて、職員に付き添われて息子が現れた。彼の顔は少しやつれていたが、思ったよりも落ち着いているように見えた。

「お母さん、久しぶりだね。」

短い言葉に、私は涙があふれそうになったが、笑顔で応えた。

「元気そうでよかった。これ、差し入れだよ。好きな本も入れておいたから、時間があるときに読んでね。」

息子は小さくうなずき、袋を受け取った。

会話はぎこちなかったが、彼は自分の小説について少し話してくれた。

「母さん、読んだんだよね。あの小説……まあ、妄想っぽいけど、どっちでもいいんだ。俺にとっては、外の世界にいる感じを思い出すためのものだから。」

その言葉に、私は何と返していいのかわからなかった。ただ、彼が小説を書くことで自分を保とうとしているのだと理解した。

「そうだね、どっちでもいいよ。書くことで気持ちが少しでも楽になるなら、それでいい。」

彼は一瞬だけ微笑んだように見えた。面会時間は短かったが、彼の表情や言葉の端々から、少しずつ前を向こうとしている様子がうかがえた。

帰り道、私は祈った。彼が健全な心を取り戻し、いつか自分自身の言葉で光を描けるようになる日が来ることを。

小説を通して、彼の世界はまだ完全に閉ざされていない。それがわかっただけでも、今日の訪問には意味があったと感じた。