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子供部屋おばさん

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夜中の1時を過ぎているというのに温度27度。湿度71%。

ちょっと台所に行って、冷蔵庫の水を飲んだだけで

べとっと湿気が首筋にまとわりついてくる。

洗面台の鏡を見ると、

髪を何年も切らずに伸ばしてゴムで止めただけの干物女がいる。

色気も覇気も無い生物がそこには写し出されている。

肌の艶も無く何となくくすんでいる。

眉間には縦にしわがあり口角は何が不満なのか下がっている。

「あううう、醜悪」

ボソリと投げ捨てるように呟く。

何本か白髪さえ目につくその容貌に

「これはわたしではない」

と、認めたくない自分がいた。

 わたしの名前は、小林 真理。

大学を卒業して、就活に失敗しそのままずるずるとずっと家の中で過ごしている。

40歳の子供部屋おばさんだ。

父が身罷った後、母がパートに出たりして家計を支えていた。

わたしは、この家の公共料金も食費も雑費もどのくらいかかっているのか全く知らなかった。

ずーーーと、家にいるのにトイレ掃除もお風呂場も掃除した事が無かった。

小さな頃には、母の役に立ちたくてすすんでトイレや玄関などの掃除を手伝っていたのにね。

食事は何時も母が作ってくれていたのだが、上げ膳据え膳で

食べおわった食器を片付けた事も洗った事もなかった。


そもそも子供部屋おばさんとは、一般的に40代以上で実家で親と一緒に暮らしている女性のことで、実家がないと生きていけない、大人になっても家のことは親任せの女性のことを表しています。 ここ数年、実家の子ども部屋にいつまでも住み続ける未婚者を、ネットスラングで「子ども部屋おじさん/おばさん」と呼ぶ。


母が生きているうちは、それでも何とかなっていたのだが、突然3カ月前に母は身罷った。

葬式の席で親せきから、

「お母さんを殺したのはお前だ。ニートめ」

と、叱責された。

言われた時はまだ元気だったのだろう。

「わたしだって、好きで子供部屋おばさんをしてるわけじゃない」

と、心の中で反発したのだが、今は言い返す力さえない。

ずっと頭の中をぐるぐると

「お母さんを殺したのはお前」

あざけりの声が走馬灯のように聞こえる。

耳を塞いでも布団をかぶっても、お風呂に入っても

執拗にわたしの脆い心を打ち砕く。

黒い魔の手を持った闇がとぐろを巻いて逃げても逃げても

追いかけてきて纏わり付こうとする。

メンタル豆腐なのに、ぐちゃぐちゃにかき回されたみたいだ。

いや、言った親せきを責めてるわけじゃない。

それは単なる引き金。

それは多分、引きこもった17年間の間に培われた自己否定だろう。

自分を受け入れられない。

折り合いが付けられない。

愛することが出来ない。

慈しみ世話をして変化を楽しみ育てることができない。

葬式、初七日、四十九日。

まだ最初の頃は、自分を許せていた。

喪失感と闘わなければいけなかったから。

もう自分を守ってくれる人は誰もいないという母の死を受け入れなければいけなかったから。

日にちがたってくるほどに、生活感の無さに呆れかえる。

ゴミ一つまともに出せない。

無力だ―――。

たとえば、ペットボトル。

キャップを外して燃えるゴミと別にする事も解らなかった。

たとえば、蛍光灯。

これもまた、どのゴミの日に出せばいいのか分からなかった。

適切では無い出し方をすると、清掃局は持って行ってくれない。

場所さえ自分勝手に少しずらしたりするものだから、

何度も持って行ってもらえず、その度に電話をして確認。


たとえば、使い古した生理用品。

ネットもかけずに袋に入れて出すものだから、

カラスが突いて散らかす。

恥ずかしいったらありゃしない。

母は、新聞紙で袋を作ってその中に入れるようにしてくれていた。

その新聞紙の袋や箱の作り方が解らない。

小さなものは、乾電池。

しまいにはめんどくさくなり、分別さえしなくなった。

粗大ごみは、あらかじめ連絡して持って行ってもらう。

わたしも大きな袋があったら、処分したい。

粗大ごみにさえならない不用品。

わたしは母からなにも教わっていなかったのだ。

いや、教わったのかも知れない。

でも、見事に記憶がない。

実践できない。

当然のようにうずたかく、ゴミの袋は積まれて行く。

足の踏み場もない程に。

コバエがたかって、異臭を放つ。

何もかもがめんどくさかった。

「ご破算で願いましては」

私もこの大量のごみも全部なかったものになればいいのに……。

オールオアナッシング。

白か黒か。

是耶非耶(ぜかひか)。

わたしの選択に残念ながらまだ3択はない。

自分で選んで自分で責任を取るというもっとも大切な特質は培われていなかった。

悶々と自分の心の中で繰り返す押し問答。

「こんな状態になっているのは誰のせい」

ありのままの自分を認めることも受け入れることも折り合いをつけることもできない。

そして、どんどん自分を消したくなってくる。

こんな生きているだけで粗大ごみのわたしは

「社会から抹消すべし」

それは強迫観念にも似た切羽詰まった声だった。

悪魔のささやきなのだろうか。

ゴミ袋の結び目の間から、コバエが何匹も出てくる。

ゴミ袋をじっくり見ると、ひくひくと這いずっているウジ虫がいる。

「まるでわたしだ」

臆病でリストカットも自殺も出来ない私は言葉で自分を責めさいなんだ。

それが今、生きていてもいいというたった一つの条件だとでも思っていたのだろう。


母が身罷ってから4カ月後には見事に歩くことさえ出来なくなっていた。

コンビニに食料の買い出しさえいけなくなった私は、119番に電話した。

「生きたいと思うなら誰かに助けを求めるんだ」

そんな内なる声に動かされて。

搬送先は、国立の精神病院だった。


『重症うつ病』

くだされた診断名。

「自分なんかもうオワコンだ」

という投げやりな気持ちと

「やり直しするのに遅いということはない」

というポジティブな気持ちが行ったり来たり。

でも、確実に入院2カ月を過ぎたあたりから

何処から手を付けたらいいのかわからなかった縺れまくった人生の糸がほぐれて行く。

明けない夜はないんだって、頭では解ってるけど

待てない、続かない。

大人と子供をわけるプロセスさえ身についていなかった。

なさけなー。
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