感情

感情の行方

感情の行方

里奈（りな）は、仕事から帰宅してソファに身を沈めた。都会の喧騒と仕事のストレスから解放されるこのひとときが、今の彼女にとっては何よりの安らぎだった。だが、頭の中でぐるぐると考えが巡り続け、まるで心の中の渦に飲み込まれるかのような感覚からは逃れられない。

彼女は、少し前に恋人の拓真（たくま）と別れたばかりだった。交際は順調だと思っていたが、ある日突然、彼から別れを告げられた。「自分の気持ちが分からなくなった」と言われ、呆然とするしかなかった。言い争いもなければ、裏切りもなかった。それなのに、彼の言葉は心臓に刺さるナイフのように痛みをもたらした。

「これでよかったんだ」

里奈は自分に言い聞かせる。拓真が自分を本当に愛していなかったなら、別れることが最善だったはずだ。いつかまた素敵な人と出会えるかもしれないし、一人でいることも悪くない。それは理屈では理解していた。だが、感情がその理屈に追いついてくれない。どうしても彼の姿が頭をよぎり、些細な出来事や風景が拓真との思い出を呼び起こしてしまう。

「あんなに一緒に笑い合ったのに、なんで急に気持ちがなくなったんだろう？」

その答えは、里奈自身にもわからなかった。彼の言葉を受け入れようと努力はしたが、納得できない思いが心の奥に引っかかっている。頭では理解しようとしても、感情はどうしても「どうして？」と問いかけ続ける。

ソファに座り、スマートフォンを手に取ると、里奈は無意識のうちに拓真とのメッセージの履歴を開いていた。別れる前の穏やかなやり取り、たわいのない会話、それに続く彼の突然の別れの言葉。画面をスクロールする指先が止まり、彼の「さようなら」の一文に目が留まる。胸の奥が痛みで締めつけられる感覚が蘇り、思わず目を閉じた。

「もうやめよう、こんなの…」

彼女はスマートフォンを置き、深呼吸をする。だが、胸の奥にたまっている重たい感情は、どれだけ息を吸い込んでも消え去ることはなかった。

週末になり、里奈は友人の美咲（みさき）とランチに出かけた。美咲は里奈の数少ない親友で、彼女のことを何でも知っている。カフェで二人は久しぶりに顔を合わせ、穏やかな時間を過ごした。

「最近、どう？少しは落ち着いた？」

美咲が優しく尋ねる。里奈は無理に笑顔を作り、首を縦に振った。

「うん、だいぶね。でも、やっぱりまだモヤモヤしてるっていうか、気持ちがついていかないの。頭ではもう彼とは終わったんだってわかってるけど、心が追いつかないっていうか」

美咲は少し考え込み、コーヒーのカップに目を落とした。

「無理に納得しなくてもいいんじゃない？感情って、どうしても理屈通りにはいかないものだし。気持ちが追いつかないなら、無理に合わせようとしなくても、そのままでいいんだよ」

里奈は彼女の言葉に少し救われた気がした。確かに、感情が理屈通りにいかないのは自然なことなのかもしれない。今の自分を否定せず、受け入れることが、もしかしたら一番大事なのかもしれない。

「でも、いつかはこのモヤモヤから抜け出さなきゃって、焦っちゃうんだよね。早く前向きにならなきゃって」

美咲は穏やかに笑った。

「前向きになるって、無理やり気持ちを切り替えることじゃないと思うよ。悲しいときは悲しいって感じて、怒ってるときは怒っていい。そうして、自分の感情を全部感じきったときに、自然と前を向ける日が来るんじゃないかな」

里奈は彼女の言葉を噛み締めるようにして、ゆっくりと頷いた。

「そうだよね…。自分の感情をちゃんと感じること、忘れてたかもしれない」

それからの里奈は、少しずつ感情に向き合うようにした。彼を思い出して泣きたいときは泣き、怒りや悔しさを感じるときはその気持ちを無視せず、しっかりと向き合うようにした。感情を抑え込むのではなく、ありのままを受け入れる。それが自分を癒す一歩になると信じて。

ある日の夕方、里奈はベランダに出て、暮れゆく空を眺めていた。赤く染まる空と、少し冷たくなってきた風が、季節の移ろいを感じさせる。そんな中、彼女の心は少しずつ軽くなっていることに気づいた。悲しみや寂しさが完全に消えたわけではない。だが、それでも前ほど心に重くのしかかることはなくなっていた。

彼との別れを受け入れるまでには、まだ時間がかかるかもしれない。だが、それでいいのだと彼女は思えた。今はまだ感情がついてこなくても、きっとそのうち、頭と心が一つになれる日が来るだろう。その日を信じて、彼女は新しい一歩を踏み出そうとしていた。

「感情って、やっぱり思ったよりもずっと大事なんだな…」

里奈は、ひとりごとのようにつぶやき、ベランダの手すりに手を添えた。彼女の心には、これからの日々を乗り越えるための、少しの希望と勇気が芽生え始めていた。頭では理解していても、感情が追いつかないことなんて、きっと誰にでもある。それでも、感情に向き合いながら生きていくことこそが、自分自身を大切にすることなのだと里奈は思った。

遠くの空に輝く星を見上げながら、里奈はゆっくりと深呼吸をした。そして、小さく微笑みながら、これからの自分の歩む道を心の中で描いていた。