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春秋花壇

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憐れみの果てに

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「憐れみの果てに」

夕暮れの公園は、秋風に舞う枯葉の音が静かに響いていた。美沙はベンチに座り、携帯を握りしめたまま動かずにいた。彼女の視線は遠くを見つめているようで、何も見ていない。ここに来るのはもう何度目だろうか。時間が経つにつれ、心の中の葛藤が大きくなっていくのを感じていた。

彼女は数週間前に夫の浮気を知った。SNSのダイレクトメッセージで、知らない女性からの一通のメッセージがすべての始まりだった。送られてきた写真には、笑顔で寄り添う夫と若い女性の姿があった。最初は目の前が真っ暗になり、怒りと悲しみが同時に押し寄せた。それでも、美沙は家を飛び出すこともせず、彼に直接 confrontすることもなかった。なぜなら、彼女の心のどこかに「自分が悪かったのかもしれない」という思いがあったからだ。

「私がもっと優しくしていれば…」「もっと話を聞いていれば…」そんな思いが彼女の胸に重くのしかかっていた。美沙は、彼の浮気を知る前から夫との関係に冷え切ったものを感じていた。結婚してから10年が経ち、日常はすっかりルーティン化していた。子供の送り迎え、食事の準備、家計のやりくり。互いに仕事が忙しくなり、会話は次第に少なくなっていった。それでも、美沙はそれが「普通」だと思っていた。

ベンチに座る美沙の横には、いつも寄り添ってくれた親友の梨花がいた。彼女は美沙の辛さを感じ取り、そっと手を握りしめた。「美沙、大丈夫?」と優しく声をかけると、美沙は小さくうなずき、涙をこぼした。

「本当は、彼を許したいのかもしれない…」美沙は震える声で言った。「でも、どうやって許せばいいのか、わからないの。彼を憐れんでしまう自分がいるの。そんな私が、結局自分を許せないんだ。」

梨花は黙って美沙の言葉に耳を傾けていた。彼女は何度も美沙に「自分を責めないで」と言ってきたが、その言葉がどれほどの意味を持つのか、梨花自身もわかっていなかった。憐れみと許しの間で揺れる美沙の心を見ていると、自分自身の感情も揺れ動いているようだった。

美沙は、浮気をしている夫がどんな気持ちでいるのか考えたことがあった。彼が寂しかったのか、ただ刺激を求めていただけなのか、それとも何か他に理由があったのか。どれも彼に直接聞く勇気はまだなかったが、美沙の頭の中ではその問いが何度も何度も繰り返されていた。

家に帰ると、夫は何事もなかったかのようにテレビを見ていた。いつものリビング、いつもの空気。美沙は深呼吸をして、「ただいま」とだけ言った。夫は振り返り、「おかえり」と笑顔で返した。その笑顔が嘘のように思えて、美沙はその場に立ち尽くしてしまった。

「ちょっと、話があるの」と、美沙は静かに口を開いた。夫は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつものようににこやかに座り直した。「何の話?」

美沙は心の中で何度もリハーサルした言葉をゆっくりと紡いでいった。「あなたのこと、知ってるわ。浮気していることも、あの女性のことも。」

その瞬間、夫の顔から笑顔が消えた。彼は言い訳もせず、美沙の目を見て何も言わなかった。その沈黙が、美沙にとって何よりも辛かった。彼の沈黙は罪悪感なのか、後悔なのか、それともただの無関心なのか。美沙にはそれがわからなかった。

「私は、あなたを許したいと思ってる。でも、そのためにはあなたが真実を話してくれることが必要なの。嘘のないあなたを見たいの。」美沙は涙をこらえて話し続けた。

夫はしばらく黙ったままだったが、やがて重い口を開いた。「ごめん、美沙。俺も、自分がどうしてこうなったのか、正直わからないんだ。ただ、もう一度やり直したい。君と一緒にいたい。」

その言葉に、美沙は一瞬心が揺れたが、すぐに自分を取り戻した。彼の言葉に真実が含まれているのか、それともただの言い訳なのか、彼女はまだ信じられなかった。だが、それでも美沙は決断した。

「一緒にカウンセリングに行こう。今のままじゃ、きっとお互いに苦しいだけだから。」美沙の提案に、夫は驚きながらも頷いた。

それからの日々は、決して簡単ではなかった。美沙も夫も、互いの傷を少しずつ癒し、信頼を取り戻すために努力を重ねた。許すことは簡単ではないが、憐れむことから少しずつでも前進することはできる。それが美沙にとっての「許すこと」への第一歩だった。

美沙はまだ、完璧に夫を許してはいなかった。しかし、憐れみを抱く自分をも許し、新たな関係を築くために日々を過ごしていた。許しとは、一度で完結するものではなく、毎日少しずつ進む道のりであることを、美沙は身をもって知ったのだった。
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