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春秋花壇

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せん越さ

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せん越さ

森下健一は、30歳を過ぎたばかりの若手弁護士で、忙しい日々に追われながらも順調にキャリアを積んでいた。しかし、何となく心の奥底に引っかかるものがあった。それは、親から譲り受けた小さな家と庭、そしてそこに残された記憶だった。

「せん越さ」とは、森下家の先代が家族や地域に対して謙虚さをもって接する姿勢を表していた言葉で、家族の中で伝えられてきた教えだった。健一はその教えを守ることが大切だと思いながらも、忙しさに追われる日々で忘れがちだった。

ある日、健一は仕事の合間に実家に立ち寄った。庭には祖母が手入れをしていた花が咲き乱れていた。彼女は今は亡き母親の手元に残されたものの中から、ひとつひとつ手入れをしていた。健一が家に帰るたびに見かける光景で、どこか懐かしい気持ちになる。

その日、庭に出た健一は、どこかしら異様な静けさを感じた。普段は子どもたちの遊ぶ声や、鳥のさえずりが響く庭も、今日はどこか物静かだった。ふと目をやると、一人の老人が庭の隅に立っていた。知らない人だったが、その姿がどこか見覚えがあるような気がした。

「こんにちは。」健一は声をかけた。

老人は驚いたように振り返り、にこりと笑った。その笑顔にはどこか親しみがあった。「こんにちは。こちらの庭は、とてもきれいですね。」

「ありがとうございます。母が亡くなった後も、祖母がずっと手入れをしているんです。」健一は答えた。

老人はゆっくりと歩み寄り、庭の隅にある古い石灯籠を見つめた。「この灯籠、どこかで見たような気がします。」

健一は驚いた。灯籠は家の先代から受け継いだもので、大切にしていたが、特別な由来があるわけでもなかった。「ああ、それは先代のものです。特に何か伝えられたわけではないんですが。」

「実は、私もその灯籠に見覚えがあるんです。」老人は目を細めて言った。「私の名前は石田です。かつてこの地域に住んでいた者で、長い間お世話になっていたんです。」

石田と名乗る老人の話によれば、彼の家族は戦後間もなくこの地域から引っ越し、その後もその地域とのつながりを持ち続けていたという。灯籠のことは覚えていないものの、森下家と石田家の間には長い歴史があることを知っていた。

「その灯籠、私の家のものだったんですか。」健一は驚きとともに尋ねた。「母からは特に何も聞かされていなかったので。」

石田はゆっくりと頷いた。「あなたの先代は、地域の人々に対してとても親切で、尊敬されていました。灯籠もその一部だったんです。」

健一はその話を聞きながら、自分の心に何かが響くのを感じた。せん越さという言葉が、今この瞬間に意味を持つように思えた。先代の教えを受け継ぐことの重要性を、初めて実感したのだった。

「私も先代の教えを受け継ぐべきだと思います。」健一は決意を込めて言った。「地域とのつながりや、周りの人々に対する配慮を大切にしなければ。」

石田は微笑んで頷いた。「それが良いことです。お互いに支え合い、尊重し合うことが、地域や社会を支える力になりますから。」

その日、健一は石田と共に庭を歩きながら、昔の話や家族の思い出を語り合った。夜が更けると、石田は静かに立ち去り、健一はそのまま庭に立っていた。星空の下で庭を見渡しながら、先代の教えが再び自分の中で息づくのを感じた。

「せん越さ」を守ることが、ただの謙虚さではなく、実際に他者とのつながりを築くための大切な価値であることを改めて認識した健一は、これからの人生を、もっと深く、もっと心を込めて生きていくことを決意した。








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