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時雨

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時雨

時雨(しぐれ)は、秋が終わり、冬の訪れを告げるように降る短い雨だった。昼間のうだるような暑さがようやく和らぎ、空気がひんやりと冷たくなるころ、その降り方はまるで思い出の中に紛れ込んだ涙のように、静かで儚いものだった。

東京の街は、どこか沈んだ色合いを帯びていた。ビルの隙間から見える空は、灰色の雲に覆われ、昼下がりにしてはあまりにも暗かった。しばらく続いていた乾いた晴天がようやく終わり、しっとりとした湿気を帯びた風が街を通り抜ける。時雨の気配が感じられると、なぜか人々の歩調もゆっくりとしたものに変わる。

静かな雨音が耳に届くと、思わず心が安らぐのを感じた。濡れたアスファルトの匂いと、地面を打つ雨のリズムが交わる音が、何かの境界線を越えたような気がして、心の中が少し軽くなったような気がする。

瑠衣(るい)は、そんな時雨の中を一人歩いていた。彼女の足元には、ぽつぽつと水たまりが広がり、足元を滑らせながらも、しっかりと地面を踏みしめるように歩く。傘を持たずに、濡れた髪をそのままにして歩くのは、瑠衣の不思議な習慣だった。雨に濡れることで、どこか心が洗われるような気がしていた。

「また、雨か…。」

つぶやいた言葉は、すぐに時雨の音にかき消される。しかし、瑠衣の胸の奥には、何か重たいものがまだ残っている気がしてならなかった。かつて彼女が愛した人、蓮(れん)との記憶。それは今も、時折彼女の心をかき乱すものだった。特に、雨が降るたびに、彼のことを思い出してしまう。

あの時も、時雨の降る日だった。

「どうして、こんなに静かなんだろう。」

瑠衣は、思わず足を止めて、ふと空を見上げる。雨粒が冷たい肌に落ちてきて、思わず肩をすくめた。昔、蓮と一緒に歩いたこの道も、今ではもう二度と一緒に歩くことはない。それでも、瑠衣はこの道を歩くたびに、彼と過ごした日々が鮮やかに蘇ってくる。

二人で過ごした時間は、まるで夢のようだった。蓮は優しくて、どこか不器用なところがあり、瑠衣の小さな願いを何でも叶えてくれるような人だった。彼と出会ったことで、世界の色が変わったように感じていた。何もかもが輝いて見えたのに、あの一瞬から全てが壊れてしまった。

「どうして、別れなければならなかったのか…。」

心の中でそう呟くと、瑠衣は小さくため息をつく。彼のことを思い出すたびに、胸が痛くなる。時雨は、その痛みを少しだけ和らげてくれる。泣いてしまいたい気持ちもあったが、彼女はただ歩き続けるしかなかった。

「もう、振り返るのはやめよう。」

瑠衣は、ふと自分に言い聞かせるように呟いた。振り返ることができたなら、きっと彼との思い出に溺れてしまいそうで、進むべき道を見失ってしまうだろうからだ。だから、彼女は前を向き続けるしかない。

時雨は、ほんの少しだけ優しくなった気がする。雨はやみ、薄曇りの空に少しだけ青空が覗いている。瑠衣はその空を見上げて、少し微笑む。

「あの日のことは、もう過去だ。」彼女は再び歩き出す。自分を奮い立たせるように、足をしっかりと踏みしめ、次の一歩を踏み出す。

この街で彼と出会い、この街で彼と別れた。時雨が降るたびに、彼との思い出が鮮明に蘇るが、それもまた過去の一部だ。今は、前を向いて進んでいかなければならない。

瑠衣は、時雨の降る街を歩きながら、今一度その決意を胸に刻む。そして、次の一歩を踏み出す。心が少しだけ軽くなった気がして、ふと空を見上げたとき、またひとしずく、冷たい雨が彼女の髪に落ちてきた。

その冷たさが、また心をリセットするように感じた。

「また、明日から頑張ろう。」瑠衣は、小さな声で呟く。冬の足音が近づく中、彼女は新たな決意を胸に歩き続けた。







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