春秋花壇

金木犀の香り

金木犀の香り

金木犀の香りが街に満ち始めたのは、夏が終わり秋の気配が感じられる頃だった。オレンジ色の小さな十字の花が木々に散りばめられ、その甘い香りはどこか懐かしい。通りを歩くたびに、その香りがふと鼻をかすめ、幼い頃の思い出が蘇る。金木犀の季節になると、心が少しだけ切なくなるのだ。

そんなある日、僕は仕事帰りにスーパーへ寄り、『晴れ風』というビールを手に取った。デザインが爽やかで、名前にも心を引かれた。青い空にそよぐ風を思わせるその名に、何となく今の気分に合う気がしたのだ。甘い金木犀の香りとこのビール。家に帰ってベランダでそれを味わうのが楽しみだった。

帰宅してすぐに缶を冷蔵庫に入れ、シャワーを浴びた。仕事での疲れを洗い流すと、体が軽く感じられた。リビングに戻り、窓を開けると外の風が心地よく吹き込んできた。金木犀の香りが一層強く感じられる。

僕は冷えたビールを取り出し、缶を開けた。プシュッという音とともに、麦の香りが立ち昇る。ベランダに出て、椅子に座り、一口含んだ。その瞬間、ビールの爽やかな苦みと金木犀の甘い香りが混ざり合い、心がほっとした。

「やっぱり、秋が一番好きだな」と僕はつぶやいた。

秋になると、自然と感傷的になることが多い。季節の移ろいが、まるで人生そのもののように思えるのだ。夏の終わりと共に何かが過ぎ去り、秋の穏やかな日々が訪れる。だが、その穏やかさの裏には、何か失ったものがあるような気がする。

金木犀の香りを感じながら、僕はふと昔の恋人のことを思い出した。彼女とはこの季節に出会い、そしてこの季節に別れた。彼女の好きだった花が金木犀だったことを、今でも覚えている。彼女はよく「金木犀の香りが一番好き」と言って、道端に咲くその花をじっと眺めていた。

「元気にしているのかな」と、彼女の顔を思い浮かべたが、もう何年も連絡を取っていない。別れてからしばらくは辛かったが、今ではその思い出も淡いものとなっている。それでも、金木犀の香りに触れるたびに、彼女の笑顔が浮かぶのは不思議なものだ。

僕は再びビールを口に運んだ。冷たい液体が喉を通り、心地よい爽快感が体に広がる。『晴れ風』という名前がぴったりのビールだ、と改めて感じた。金木犀の香りと相まって、なんとも言えない穏やかな気持ちになる。

秋の夜風が少し冷たくなってきた。ベランダから見える夜空には、いくつかの星が瞬いている。僕は少し背を伸ばし、空を見上げた。都会の夜空はあまり星が見えないが、それでも時折、明るく輝く星が視界に入る。

「もう少し寒くなったら、また星を見に行こうか」と僕は一人ごちた。

昔、彼女と一緒に星を見に行った山の夜を思い出した。彼女が星座に詳しく、夜空を指さして「あれがオリオン座、あれがカシオペア」と教えてくれた。僕は星の名前などほとんど知らなかったが、彼女の指さす先を見上げるのが楽しかった。彼女の横顔が月明かりに照らされて、何とも美しかったことを覚えている。

あの夜以来、僕は星を見ると彼女を思い出すようになった。彼女と別れてからは一度も星を見に行っていないが、いつかまた、誰かと一緒に星を眺める日が来るのだろうか。

ビールを飲み干し、僕は缶をそっとテーブルに置いた。夜風が少し強くなり、金木犀の香りも風に流されて遠ざかっていくようだった。

季節は巡り、また新しい秋がやって来る。僕はそのたびに何かを思い出し、そして少しずつ前に進んでいく。金木犀の香りに包まれながら、僕はそっと目を閉じた。

「明日も晴れるといいな」と、静かに祈るように願った。

そして、僕はもう一度『晴れ風』を手に取る。季節の風を感じながら、これからの新しい日々に思いを馳せた。