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柿食えば鐘がなるなり法隆寺
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柿食えば鐘がなるなり法隆寺
秋の風が涼しくなり始めた頃、私は久しぶりに奈良の法隆寺を訪れることにした。田舎から電車を乗り継ぎ、歴史の重みを感じるその場所へと向かう道中、頭の片隅にふと芭蕉の句が浮かんだ。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
子供の頃、母に何度も聞かされたその句が、なぜか今になって心に染み渡る。
法隆寺の境内に足を踏み入れると、朱色の瓦屋根が秋の空に映えていた。観光客はまばらで、静かな空気が漂っている。私はふと足を止め、境内の脇にある茶屋へと向かった。年季の入った木造の小さな店で、看板には「柿あります」と手書きの文字が書かれている。
「柿、ひとついただけますか?」
私は店主に声をかけ、柿を受け取った。どっしりとした重みのある橙色の果実は、まるで秋の象徴そのもののようだった。
「昔、この句をよく聞かされました」と店主に笑いかけると、彼は優しく頷いた。「この辺りじゃ、柿と鐘の音が秋の風物詩なんですよ。ちょっとだけ、昔に戻れますからね」
私は礼を言い、その場を後にした。
少し歩くと、大きな鐘が視界に入った。法隆寺の鐘楼だ。観光客が立ち止まり、鐘を見上げていたが、誰も鳴らす様子はない。私はそっと鐘の前に立ち、柿を手に取って一口かじった。
甘さと渋さが絶妙に絡み合う味わい。目を閉じれば、遠い昔、母と一緒に食べた柿の味がよみがえってくる。当時はまだ幼くて、柿があまり好きではなかったが、母はいつも言った。「秋の味覚は大人になったらわかるわよ」。今、その言葉の意味が少しだけ理解できる気がした。
鐘を前にして、私は深呼吸した。時が止まったような静寂の中、手にした柿がまた秋の香りを放つ。その瞬間、鈍い響きが空気を裂いた。鐘が鳴ったのだ。
私が驚いて振り返ると、一人の老僧が鐘をゆっくりと鳴らしていた。その音は寺全体に広がり、やがて山々に吸い込まれるように消えていった。老僧は私に気づき、微笑んで会釈した。
「鐘の音が心に染みますね」と私が話しかけると、彼は穏やかに頷いた。「秋は特にそうです。鐘の音は、過ぎゆくものを感じさせるものですからね。あなたも、何か思い出したことがあるんじゃないですか?」
私はその言葉に、思わず母の顔を思い浮かべた。母は数年前に他界しており、その笑顔も声ももう二度と聞けない。それでも、ここに立つと彼女がすぐそばにいるように感じられるのは不思議だった。
「そうですね…母のことを少し思い出しました。彼女がいつも言っていた句が、この場所にぴったりで」
「『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』、ですね?」と老僧が静かに続ける。
「はい、それです」
「その句は、ただの風景描写だけではないんです。人生の一瞬一瞬を大切にし、音に耳を傾けることの意味が込められているんです」
老僧の言葉に、私はじんわりと涙が滲んだ。鐘の音は、単なる音ではない。人生の流れや、失われたものへの追憶、そして今を生きることの尊さが込められているのだと、初めて実感した。
「母も、こういう風に感じていたのかもしれませんね」と言うと、老僧はまた微笑んだ。「その気持ちがあれば、きっとどこかでお母様も微笑んでいますよ」
私は深く礼をし、鐘楼を後にした。空は澄み渡り、秋の風が吹き抜けていく。柿を食べ、鐘の音を聞いたこの時間が、私にとってかけがえのないものになるだろうと感じた。
母の思い出とともに、法隆寺の鐘の音は、これからも私の心の中で鳴り続けるだろう。
秋の風が涼しくなり始めた頃、私は久しぶりに奈良の法隆寺を訪れることにした。田舎から電車を乗り継ぎ、歴史の重みを感じるその場所へと向かう道中、頭の片隅にふと芭蕉の句が浮かんだ。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
子供の頃、母に何度も聞かされたその句が、なぜか今になって心に染み渡る。
法隆寺の境内に足を踏み入れると、朱色の瓦屋根が秋の空に映えていた。観光客はまばらで、静かな空気が漂っている。私はふと足を止め、境内の脇にある茶屋へと向かった。年季の入った木造の小さな店で、看板には「柿あります」と手書きの文字が書かれている。
「柿、ひとついただけますか?」
私は店主に声をかけ、柿を受け取った。どっしりとした重みのある橙色の果実は、まるで秋の象徴そのもののようだった。
「昔、この句をよく聞かされました」と店主に笑いかけると、彼は優しく頷いた。「この辺りじゃ、柿と鐘の音が秋の風物詩なんですよ。ちょっとだけ、昔に戻れますからね」
私は礼を言い、その場を後にした。
少し歩くと、大きな鐘が視界に入った。法隆寺の鐘楼だ。観光客が立ち止まり、鐘を見上げていたが、誰も鳴らす様子はない。私はそっと鐘の前に立ち、柿を手に取って一口かじった。
甘さと渋さが絶妙に絡み合う味わい。目を閉じれば、遠い昔、母と一緒に食べた柿の味がよみがえってくる。当時はまだ幼くて、柿があまり好きではなかったが、母はいつも言った。「秋の味覚は大人になったらわかるわよ」。今、その言葉の意味が少しだけ理解できる気がした。
鐘を前にして、私は深呼吸した。時が止まったような静寂の中、手にした柿がまた秋の香りを放つ。その瞬間、鈍い響きが空気を裂いた。鐘が鳴ったのだ。
私が驚いて振り返ると、一人の老僧が鐘をゆっくりと鳴らしていた。その音は寺全体に広がり、やがて山々に吸い込まれるように消えていった。老僧は私に気づき、微笑んで会釈した。
「鐘の音が心に染みますね」と私が話しかけると、彼は穏やかに頷いた。「秋は特にそうです。鐘の音は、過ぎゆくものを感じさせるものですからね。あなたも、何か思い出したことがあるんじゃないですか?」
私はその言葉に、思わず母の顔を思い浮かべた。母は数年前に他界しており、その笑顔も声ももう二度と聞けない。それでも、ここに立つと彼女がすぐそばにいるように感じられるのは不思議だった。
「そうですね…母のことを少し思い出しました。彼女がいつも言っていた句が、この場所にぴったりで」
「『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』、ですね?」と老僧が静かに続ける。
「はい、それです」
「その句は、ただの風景描写だけではないんです。人生の一瞬一瞬を大切にし、音に耳を傾けることの意味が込められているんです」
老僧の言葉に、私はじんわりと涙が滲んだ。鐘の音は、単なる音ではない。人生の流れや、失われたものへの追憶、そして今を生きることの尊さが込められているのだと、初めて実感した。
「母も、こういう風に感じていたのかもしれませんね」と言うと、老僧はまた微笑んだ。「その気持ちがあれば、きっとどこかでお母様も微笑んでいますよ」
私は深く礼をし、鐘楼を後にした。空は澄み渡り、秋の風が吹き抜けていく。柿を食べ、鐘の音を聞いたこの時間が、私にとってかけがえのないものになるだろうと感じた。
母の思い出とともに、法隆寺の鐘の音は、これからも私の心の中で鳴り続けるだろう。
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