春秋花壇

落とし水

「落とし水」

秋の訪れを感じる頃、田んぼは黄金色に染まり始めていた。稲穂が風に揺れる様子は、まるで自然が奏でる楽器のように美しい。しかし、稲の成長には一つの重要な作業がある。それは、田んぼの水を抜くこと、「落とし水」と呼ばれる作業だ。

佐藤家では、代々続く米作りを営んでいた。長男の健太は、今年初めて一人前として稲刈りの準備を担うことになった。農業を手伝い始めた頃から、父から教わったことがたくさんある。しかし、いざ自分が主導で作業を進めるとなると、緊張が走った。

「健太、落とし水はもう始めたか？」と、父の声が耳に入った。

「まだです。これからやります。」健太は自信なさげに答えた。水を抜くことは、稲の成長に欠かせない重要な作業である。稲を乾かして、登熟を促し、稲刈りをスムーズに行うためには、タイミングが重要だ。

健太は田んぼへ向かう。大きな空が広がり、清々しい風が吹き抜ける。その中で、稲穂が輝いているのを見て、少し勇気をもらった。自分の手で育てたこの稲が、今まさに実を結ぼうとしているのだ。

田んぼに着くと、彼は水路の位置を確認した。水が流れる音が心地よく響く。健太は道具を取り出し、水を抜くための作業を始めた。最初は少しぎこちない手つきだったが、次第に慣れてきた。

「これで少しずつ水を抜けばいいんだ。」彼は心の中で自分に言い聞かせる。

水がゆっくりと抜けていく様子を見ていると、健太は不思議な感覚を覚えた。水が減ることで、稲が生き生きとしていくような気がした。自然の力を感じる瞬間だった。まるで稲が、彼に感謝を伝えているかのようだった。

作業を進めるうちに、健太の心も徐々に晴れていった。農業の大変さを知っていたが、自然との共存の喜びを実感することができた。水が抜かれた田んぼは、土の色が鮮やかに浮き出てきて、彼の心にも新たな希望が芽生えた。

その日、健太は家に帰ると、母が作った夕食を囲んだ。家族での食事は、いつも心を和ませる大切な時間だ。食卓には、つい最近収穫された新鮮な野菜や、母が漬けた漬物が並んでいた。

「今日、田んぼの水を抜いたよ」と、健太は誇らしげに話す。

「それは良かったね。水を抜くのは大事な作業だから、頑張ったね。」母は微笑みながら答えた。

食事をしながら、父と母は農業の話を続けた。父は昔の苦労話をしながら、健太に農業の魅力を語ってくれた。祖父の時代から続く米作りの思いを受け継ぎ、今自分がその一部を担っていることを実感した。

「来週は稲刈りだね。お前が頑張って作業したから、きっと美味しいお米ができるよ。」父の言葉が健太の心に響く。

翌日、健太は朝早くに起き、再び田んぼに向かった。田んぼは水が抜かれ、土がしっかりと固まっていた。稲の実も色づき、収穫の時期が近づいていることを感じさせた。彼はその光景に思わず微笑む。

「おはよう、稲たち。もう少しだね。」心の中でつぶやくと、彼はしっかりと稲を見つめた。

日々の忙しさの中で、健太は自然のリズムを感じ取ることができるようになっていた。水を抜く作業を通じて、彼はただ米を作るだけではなく、自然との対話を楽しむことの大切さを学んでいたのだ。

稲刈りの日、健太は早朝から田んぼに立ち、周囲の仲間と一緒に作業を始めた。青空の下、黄金色の稲が揺れる中での作業は、心地よい緊張感をもたらした。稲を刈り取る度に、達成感が彼の心を満たしていく。

「これが、落とし水のおかげだ！」健太は心の中で叫んだ。水を抜くことで、稲が成長し、美味しいお米が実ったのだ。農業の奥深さを実感し、彼は自分の成長を感じていた。

夕方、田んぼでの作業を終え、健太は家族と共に新米を味わうために、みんなで集まった。白ご飯がふっくらと炊き上がり、皆の笑顔が溢れる。母が用意したおかずと共に、新米を頬張る瞬間は何よりの幸せだった。

「これが、俺たちの汗の結晶だね。」父が言うと、みんなが頷いた。

健太は、自然の恵みと家族の支えに感謝しながら、これからも米作りを続けていこうと心に誓った。落とし水の作業を通じて、彼は自然との繋がりを深め、農業の素晴らしさを実感したのだった。