春秋花壇

落とし水

「落とし水」

静かな夏の夕暮れ、陽が沈むとともに、古びた家の縁側に座る千夏は、耳を澄ませて微かな音に聞き入っていた。庭の片隅で流れる小川のせせらぎ、そして、風に揺れる木々の葉音。彼女は小さい頃からこの場所で育ち、自然の声に癒されてきた。しかし、最近は心がざわつくことが多く、昔のように素直に自然を楽しむことができなくなっていた。

千夏は都会に出て仕事を始めたが、競争社会の厳しさに疲れ果て、心の余裕を失ってしまっていた。日々のストレスは溜まり、夜はなかなか眠れず、仕事も思うように進まない。そんな中、久しぶりに帰省したのだが、心のどこかに不安が残っていた。

「お姉ちゃん、何を考えているの？」

その時、妹の花が、元気な声で呼びかけた。花は千夏のことを心配している様子だった。千夏は無意識に微笑み、振り返る。

「ちょっと、色々考えてるだけ。どうしたの？」

花は、手に水を張った小さな器を持っていた。その器には、数匹の小さな金魚が泳いでいる。彼女はその器を千夏に差し出し、目を輝かせて言った。

「見て！この金魚、今日、家の近くの川で捕まえてきたの！可愛いでしょ？」

千夏は、その金魚たちを見つめた。元気に泳ぐ姿は、確かに可愛らしい。しかし、心の中の不安は簡単には消えそうになかった。そんな時、ふと、小川の音が耳に入ってきた。

「そういえば、お姉ちゃん、落とし水って知ってる？」

突然の質問に、千夏は驚いた。昔、祖母から聞いたことがあった。落とし水は、流れる水を落とし、清めの儀式として使われるものだ。特に、厄を落とすために行うものだった。

「うん、確か、厄を落とすための水のことだよね？」

花は頷き、「そう！お姉ちゃんも、今の気持ちを流すためにやってみたらどう？」と提案した。千夏は一瞬戸惑ったが、何か心の重荷を下ろせるかもしれないと思った。

「じゃあ、一緒にやってみようか。」

そう言って、二人は小川の方へ歩き出した。静かな川辺に立ち、千夏は深呼吸をした。涼やかな風が頬を撫で、少しずつ心が軽くなるのを感じた。花は川の流れを見つめながら、何かを思い出すかのように口を開いた。

「私、お姉ちゃんのことをもっと助けてあげたいんだ。お姉ちゃんはいつも頑張ってるから、少しでも楽になってほしい。」

その言葉に千夏は驚き、思わず涙が溢れそうになった。妹の花は、幼い頃からずっと支えになってくれていた。普段はしっかり者のお姉ちゃんとして振る舞っていたが、心の奥では不安を抱え込んでいた。

「ありがとう、花。私も、もう少し素直に頼ってもいいのかな。」

千夏は水を両手で受け取り、流れる川に向かって静かに落とした。「この水が、私の悩みを流してくれますように」と心の中で願いを込めた。花も続けて水を落とし、「お姉ちゃん、きっと大丈夫だよ」と励ました。

その瞬間、千夏の心の中に清々しい感覚が広がった。落とし水に託した思いが、少しずつ解放されていくのを感じた。水は流れ去り、過去の重荷が軽くなるような感覚が心に響く。

「ほら、見て！金魚も泳いでるよ！」花の声に振り向くと、器の金魚たちが元気に泳いでいた。その姿を見て、千夏は微笑んだ。小さな命が、こんなにも生き生きとしている。彼女たちの姿は、心に新たな希望をもたらしてくれた。

帰り道、千夏は妹と一緒に笑いながら歩いた。家に着く頃には、心に少しずつ明るさが戻ってきていた。今まで抱えていた悩みや不安は、落とし水のように流れ去っていったのだ。

「お姉ちゃん、次は何をしようか？」花の声が響く。

「そうだね、今度は一緒に料理をして、みんなで美味しいものを食べようか。」

千夏は笑顔で応えた。感謝の気持ちを胸に抱きながら、妹と共に新しい未来を歩んでいくことを決意した。過去の悩みは消えたわけではないが、妹と共にいることで、乗り越える力が湧いてきたのだ。

「感謝は人の心を開き、運命を開く」

その言葉を思い出しながら、千夏は今の自分を大切にし、未来に向かって一歩を踏み出すのだった。