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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

秋の風が吹き、空は高く澄んでいる。法隆寺の境内に立つと、どこか懐かしい香りが鼻をかすめる。それは、熟した柿の甘くほろ苦い香りだった。私は子供の頃、この季節になると祖父と一緒に法隆寺を訪れ、境内にある大きな柿の木の下で、静かに時間を過ごしていたことを思い出す。

祖父はとても無口な人だったが、秋になると法隆寺に来て、私に柿を分け与えてくれる。それが、私たちの唯一の交流の時間だった。言葉はほとんど交わさないが、柿の実を一緒に食べることで何かを共有していた気がする。

その日は、久しぶりに法隆寺を訪れていた。祖父が亡くなってからもう何年も経っていたが、私はこの場所に来るたび、祖父の思い出と向き合わなければならない気がしていた。

「柿を食べてみますか?」突然、後ろから声がした。

振り返ると、法隆寺の僧侶が微笑みながら私に柿を差し出していた。驚きとともに、私は彼の手からその熟した柿を受け取った。

「ありがとうございます。懐かしい味です。」私はそう言って、柿をかじった。甘くて、ほんの少し渋みが口に広がる。まるで、時間が逆戻りしたかのように、あの頃の祖父との思い出が一瞬にして蘇った。

「ここに来るたびに、何か感じるものがあるのでしょうか?」僧侶は私の表情を見て尋ねた。

「はい。祖父とよくここに来ていました。柿を食べながら、ただ座って鐘の音を聞くのが、私たちの習慣でした。言葉は交わさないけれど、その時間がとても特別だったんです。」

僧侶はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。「この寺には、時間がゆっくりと流れているように感じることがあります。私たちが今いる場所は、何百年も前と同じ景色を見ているのです。人々の思い出や祈りが、長い年月を超えてここに残っているのかもしれません。」

私はその言葉に心を打たれた。祖父と過ごした時間も、この法隆寺という場所が持つ歴史と重なり、今でも私の心の中に深く刻まれているのだろう。柿を食べ、鐘の音を聞きながら過ごしたその静かな時間が、私たちの絆を強めていたのかもしれない。

「柿を食べれば、鐘が鳴るなり法隆寺。そんな俳句がありますよね。」私はふと俳句を口にした。

僧侶は笑みを浮かべた。「正岡子規の有名な句ですね。何気ない日常の中に、深い意味が込められているように感じます。柿という果実と、法隆寺の鐘の音が、時間を超えた繋がりを感じさせます。」

私はその言葉に耳を傾けながら、鐘の音を心待ちにしていた。やがて、遠くから響く低い鐘の音が、静かに境内を包み込んだ。祖父と過ごした日々が、再び心の中で鳴り響く。

「祖父とここで過ごした時間は、私にとってとても大切な思い出です。でも、言葉にすることはできないんです。何を話していたわけでもなく、ただ柿を食べていただけでしたから。」

僧侶は静かに頷いた。「言葉にしなくても、伝わるものがあります。大切な人との共有の時間は、言葉以上に深い絆を育むものです。あなたのお祖父さんも、きっと同じように感じていたでしょう。」

私はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。「そうですね。もしかしたら、祖父も何かを伝えたかったのかもしれません。でも、私たちの間では柿を食べることが、その言葉代わりだったのかもしれない。」

その後、僧侶と少しの間、静かな時間を共に過ごした。鐘の音が再び遠くから響き、私は心の中で祖父に感謝の気持ちを伝えた。

「ありがとうございます。この場所に来て、少し気持ちが軽くなりました。祖父と過ごした時間が、やっぱり私にとって大切なんだと再確認できました。」

「こちらこそ、お話を聞かせていただいてありがとうございました。お祖父さんとの思い出をこれからも大切にしてくださいね。」僧侶はそう言って微笑んだ。

私は一礼して、法隆寺を後にした。秋の風が再び吹き抜け、柿の甘い香りがどこか懐かしく感じられた。もう祖父とこの場所を訪れることはできないけれど、心の中ではいつでも共にいる。鐘の音とともに、私たちの絆はこれからも響き続けるだろう。

秋が深まる法隆寺の境内。柿の木は今年も豊かに実をつけ、鐘の音は変わらず響き渡る。









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