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秋深し隣は何をする人ぞ

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秋深き隣のひと

秋の風がしんみりと街を包み込む季節、昭和の趣を残すアパートの一室に住む渡辺良子は、窓から見える木々の色づきを眺めていた。ここに住んで十年以上が経つ。隣の住人とは一度も会話を交わしたことがなかった。

彼女の部屋の隣には、黒木という男が住んでいる。良子は、彼の姿を時折ちらりと見かけるが、いつも無表情で、何を考えているのかまったく読めなかった。黒木の生活は謎に包まれていた。物音ひとつ立てず、静かに暮らしている彼は一体どんな生活を送っているのだろうか。

ある日、良子は黒木が部屋に帰ってくるのを目にした。彼は薄手のコートに身を包み、疲れたような顔で鍵を取り出していた。すれ違いざまに軽く会釈する彼に、良子は小さな勇気を振り絞り、「こんばんは」と声をかけた。黒木は少し驚いた表情を見せたが、すぐに薄く笑みを返して「こんばんは」と答えた。それが、彼らの初めてのやり取りだった。

その夜、良子はふと芭蕉の俳句を思い出した。「秋深き隣は何をする人ぞ」。秋が深まるにつれ、隣の人がどんなことをしているのか気になる、そんな心情を歌った句だ。良子はまさにその心境だった。黒木は何をして生計を立てているのだろうか。何が彼の心を満たしているのだろうか。彼の静かな生活の中には、どんな物語が隠れているのかを考え始めた。

数日後、良子が買い物から帰ると、アパートの廊下に黒木の姿があった。彼は古いラジオを手に持ち、じっと見つめていた。良子は、そのラジオに目をやりながら「古いですね。動くんですか?」と声をかけた。黒木は一瞬驚いた表情を見せたが、少し笑って頷いた。

「ええ、動きます。これ、父の形見なんです。古いものが好きで、修理しながら使ってるんです」

それを聞いて、良子は初めて黒木の人となりを垣間見た気がした。彼は静かな生活を送りながら、こうして大切なものを直しては使い続けていたのだ。良子はその話に興味を持ち、「修理ができるなんて、すごいですね」と感心して言った。

「まあ、趣味みたいなものです。仕事とは違いますけどね」

黒木のその一言に、良子は彼の生活に一歩踏み込んだ気がした。仕事とは違う――それが、彼の日常の一部を垣間見せるものだった。良子はさらに尋ねてみたくなったが、それ以上は踏み込まないようにした。

その後も、良子は黒木と廊下やゴミ捨て場で挨拶を交わすようになった。時折、彼が部屋の中で何かを修理している音が聞こえることもあった。その音は、良子にとって心地よいBGMのように響いていた。秋の夜長、静かなアパートにこもるその音が、なんとなく安心感を与えてくれるのだった。

そしてある夜、良子が窓辺に座り、本を読んでいると、不意に黒木の部屋からラジオの音が流れてきた。懐かしい昭和歌謡の曲が、アパート全体に微かに響く。良子はその音に耳を澄ましながら、窓の外を見つめた。秋の夜空に、淡い月明かりが輝いている。

彼のラジオから流れる音楽は、良子にとっても懐かしい曲だった。彼の静かな部屋で、どんな気持ちでこの音楽を聴いているのだろうか。良子は、自分の中で想像を巡らせる。黒木もまた、秋の夜長を感じながら、自分だけの時間を過ごしているのだろうか。

「秋深し隣は何をする人ぞ」

良子は芭蕉の句を思い浮かべながら、ふと微笑んだ。隣の人が何をしているのか、何を考えているのか。その答えは完全には分からないままでいいのかもしれない。分からないからこそ、こうして想像を巡らせることができる。それが秋の夜の楽しみの一つなのだと良子は思った。

ラジオの音がやがて途絶え、アパートは静寂に包まれた。良子は窓を閉じ、寝室に向かった。秋の夜が深まる中、彼女は隣にいる黒木の存在を感じながら、心地よい眠りについた。隣の人がどんな人であれ、その存在が良子にとって心の安らぎとなっているのだと感じながら。










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