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菊の被綿

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「菊の被綿」

9月9日、重陽の節句が訪れた。秋の空気がひんやりとし始めたこの日、京の街はどこか静かな雰囲気に包まれている。人々は菊の花を飾り、長寿を願うための行事に心を寄せていた。

藤原家の長女、詩織(しおり)はその日、特別な思いを胸に秘めていた。彼女の家には代々伝わる「菊の被綿(きくのきせわた)」という風習があった。庭に咲く菊の花に綿をかぶせ、一晩その香りを宿した夜露を翌朝肌にしみこませる。それは長寿と無病息災を願う、家族の幸せを祈る儀式だった。

詩織は幼い頃からその風習を見守り、大切にしてきた。今年も、彼女は早朝から庭に出て、母が丁寧に育てた菊の花に白い綿をそっとかぶせた。柔らかい朝日が庭を照らし、菊の香りが淡く漂う。彼女はその場に立ち尽くし、遠い昔にこの風習が始まった理由に思いを馳せた。

詩織の母は数年前に病で亡くなっていた。母が生きていた頃は、家族みんなでこの風習を行い、笑い合いながら菊の夜露を顔に塗ったものだ。特に母の手の温かさが恋しかった。母の亡き後も、詩織はその風習を続けていたが、どこか寂しさが付きまとっていた。今年こそはと、詩織は気持ちを奮い立たせ、母が大切にしていた白い綿を手に取った。

その夜、詩織は月明かりの下で菊の花を眺めていた。夜露が静かに綿にしみ込んでいく様子を見守りながら、詩織は母の笑顔を思い浮かべた。菊の香りが風に乗って部屋の中まで届き、詩織の心に温かいぬくもりをもたらした。母がこの花に込めた祈り、家族の健康と幸せを願う気持ちを、詩織は痛いほど感じ取っていた。

翌朝、詩織は早くに目を覚まし、庭に出た。夜露でしっとりと濡れた綿を手に取り、顔を拭いた。冷たい感触と共に、菊の香りが肌に広がり、母のぬくもりを思い出させる。詩織は目を閉じ、母との思い出が次々と蘇るのを感じた。あの時の笑顔、優しい手のひら、そしてこの風習を通して母が伝えようとしていたものが、詩織の胸にじんわりと沁みていった。

「お母さん、あなたが大切にしていたこの風習を、私はずっと守り続けます」

詩織はそっとつぶやき、顔を拭いた手をじっと見つめた。その手には、母から受け継いだ願いが宿っているように感じた。長寿を願うだけでなく、この小さな儀式が家族の絆を深めるものであると、詩織は改めて実感したのだ。

その日、詩織は母の墓前に白い菊を供えに行った。菊の香りはどこか懐かしく、母の存在を強く感じさせた。詩織は菊の前に座り、手を合わせた。「お母さん、今年もちゃんとできたよ」と報告しながら、詩織は静かに涙を流した。涙はすぐに乾き、風がそっと頬を撫でていく。

詩織は母の墓前でしばらく佇み、これからも続けていくことを心に誓った。「菊の被綿」はただの風習ではなく、詩織にとっては母との大切な絆であり、家族の歴史そのものだった。今まではただ続けてきたこの儀式が、これからはもっと深い意味を持つだろうと、詩織は感じていた。

「また来年も、ちゃんと綿をかぶせるからね」

詩織は小さくつぶやき、再び家路についた。重陽の節句は、これからも詩織にとって特別な日であり続けるだろう。母から受け継いだ風習を守ることは、母への想いをつなぎ続けることでもある。詩織は静かな決意を胸に、これからの季節の移ろいを見守りながら、新たな気持ちで日々を迎えるのだった。

その秋の空は透き通り、菊の香りがいつまでも詩織の心に残り続けた。母から受け取ったこの小さな儀式が、詩織を支え、家族の絆を強めることを改めて感じた一日だった。そして、その風習はきっとこれからも未来へと受け継がれていくだろう。










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