春秋花壇

めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな

 めぐりあひて　見しやそれとも　分かぬまに　雲がくれにし　夜半の月かな

紫式部


「夜半の月」

秋の夜、都会の喧騒を離れ、静寂に包まれた古い神社の境内に、美咲は一人立っていた。月明かりが境内を照らし、その光は木々の影を長く伸ばし、まるで時が止まったかのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。神社に来るのは何年ぶりだろうか。彼女はここで、かつての恋人、涼と出会い、そして別れた。

美咲は懐かしさと共に、その夜の出来事を思い出していた。あれは、秋の深まる晩秋のこと。大学のサークル仲間であった二人は、ふとしたきっかけでこの神社を訪れた。月夜に照らされた境内を歩きながら、彼らは自然と手を繋ぎ、互いの想いを確かめ合った。そして、その晩、涼は「またここで、満月の夜に会おう」と約束し、彼女の頬にそっとキスをした。

しかし、その約束が果たされることはなかった。涼は、仕事の都合で突然遠くへ転勤になり、そのまま音信不通となった。彼の手紙も電話も、いつの間にか途絶え、美咲は彼との再会を諦めざるを得なかった。けれども、心の奥底では、涼との再会をどこかで期待し続けていた。そう、まるで月の裏側に隠れた思い出のように。

月日が流れ、美咲は別の道を歩み始めた。新しい職場、新しい友人、そして新しい恋人もできた。しかし、どれも心の中で涼との記憶を完全に消し去ることはできなかった。ふとした瞬間に、彼の笑顔や声が蘇り、切なくなることが度々あった。それでも、美咲はその記憶に固執せず、現実の中で前を向いて生きてきた。

そして今日、涼との約束の日を思い出し、彼女は無意識にこの神社へと足を運んでいた。満月が夜空に浮かび、その光が美咲の顔を優しく照らす。境内には誰もおらず、ただ静かに風が木々を揺らす音が聞こえるだけだった。

「もう、過去に囚われるのはやめよう。」

そう心に決めた美咲は、手を合わせ、涼との思い出に静かに別れを告げた。月の光が、まるでその決意を見届けるかのように彼女を照らし続ける。

その時、背後から足音が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには涼が立っていた。彼は以前と変わらない優しい笑顔を浮かべ、美咲を見つめていた。

「涼…？」

声を震わせながら彼の名を呼ぶ美咲。しかし、彼が現実か幻かは分からなかった。まるで夢の中にいるかのように、涼は穏やかな表情で、ただ彼女を見つめていた。

「久しぶりだね、美咲。」

その声は確かに涼のものであり、美咲の胸は熱くなった。しかし、次の瞬間、彼の姿は月明かりの中に溶け込むように消えていった。涼は、雲に隠れた月のように、再び美咲の前から姿を消してしまったのだ。

「また、幻だったのか…。」

美咲は、自分の目を疑いながらも、涼との再会が夢か現実かを確かめる術もなく、ただその場に立ち尽くしていた。風が吹き抜け、木々がざわめく中、彼女はもう一度、涼との記憶を思い返した。

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな…」

藤原定家の和歌が、彼女の心に深く響いた。再会したかと思えば、すぐに分からなくなるような淡い縁。それは、涼との関係そのものだったのかもしれない。美咲はその思いを胸に、再び境内を後にした。

今度こそ、本当に涼との思い出に別れを告げる時が来たのだ。彼女はもう過去に縛られず、新たな未来に向かって歩き出す決意を固めた。そして、月が再び雲の中に隠れるのを見届けた後、美咲は静かに微笑んで、神社の鳥居をくぐり抜け、闇に包まれた街へと戻っていった。

月の光は、彼女の背中を優しく見守るように、夜空に淡く輝いていた。