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居待月の夜

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『居待月の夜』

秋の夜風が静かに吹き抜ける中、満月から少し欠けた居待月が東の空にゆっくりと昇り始めていた。辺りはしんと静まり返り、虫の音が微かに聞こえるだけ。月明かりが田畑や小川を淡く照らし、夜の世界に優しい光をもたらしていた。

美紀は縁側に座り、ぼんやりと夜空を見上げていた。彼女にとって、この居待月の夜は特別だった。年に一度、月が少し遅れて昇るこの夜、彼女は毎年ひとりで月を待つのが習慣だった。幼い頃から続けているこの行事は、彼女にとって大切な儀式のようなものだった。

その夜、縁側に腰を下ろした美紀は、ふと遠い過去の思い出に心を馳せていた。彼女がまだ若かった頃、ある年の居待月の夜、彼女は一人の青年と出会った。彼は旅の途中でこの町に立ち寄り、月を眺めるためにこの家の前を通りかかった。

「こんなに美しい月夜を一人で見るのは寂しくありませんか?」と彼は声をかけた。美紀は少し驚いたが、その温かい声に安心感を覚え、彼を招き入れた。二人は縁側に並んで座り、夜が更けるまで話し込んだ。話の内容は覚えていないが、彼との穏やかな時間が美紀の心に深く刻まれたのは確かだった。

しかし翌朝、彼は何も言わずに去ってしまった。彼の存在は、まるで一夜の幻のように消え去り、彼女に残されたのは僅かな寂しさと、月の美しさだけだった。それ以来、美紀は居待月の夜を待ちわびるようになった。それは、彼と過ごした一夜の再現ではなく、彼女自身の心の中に彼の存在を留めておくためだった。

毎年、同じ場所で同じ月を眺めながら、美紀はその思い出を胸に抱いていた。そしていつしか、彼女の心の中で彼は、ただの旅人から、特別な存在へと変わっていった。彼と再び会うことはなく、彼女も結婚せずに一人で暮らし続けたが、それでも彼女は満たされた気持ちでいた。

今夜もまた、美紀は縁側で居待月を待っていた。冷えた空気が肌に触れ、秋の深まりを感じさせる。月がゆっくりと昇り始め、彼女はその光に目を細めた。その時、心の奥底から、あの日の記憶が鮮明に蘇った。

突然、美紀の耳に懐かしい声が響いたように感じた。「こんなに美しい月夜を一人で見るのは寂しくありませんか?」それは、彼の声だった。美紀は驚いて周囲を見回したが、誰もいなかった。彼の姿はなく、ただ静かに月が彼女を見守るように輝いていた。

涙が自然と頬を伝った。彼女はそっとその涙を拭い、微笑んだ。「そうね、今夜はあなたと一緒に見るつもりよ」と、彼女は心の中で彼に語りかけた。

月はその輝きを増し、夜の闇を優しく照らしていた。美紀は静かに目を閉じ、彼と過ごしたあの一夜の記憶を再び感じ取ろうとした。彼の温かさ、穏やかな笑顔、そして月夜の美しさ。それらすべてが、彼女の心にしっかりと根を下ろしていた。

「ありがとう」と、美紀は小さく呟いた。彼との思い出が、今でも彼女を支えていることに感謝していた。彼がいなくても、彼の存在は彼女の中で生き続けていた。

居待月の夜、美紀はまた一人、静かに月を見上げながら、彼と共に過ごす時間を楽しんでいた。その光は、彼女の心を温め、孤独を癒してくれる。彼女はこれからも、毎年この夜に月を見上げ、彼と共にあることを感じ続けるだろう。

夜が更け、月が高く昇りきる頃、美紀は静かに家の中に戻った。彼女の心には、再び満たされた感覚が広がっていた。彼女は居待月の夜を、これからもずっと大切にしようと心に決めていた。それは、彼女が生涯をかけて守り続ける思い出の夜だった。

翌朝、美紀はいつも通りの生活に戻ったが、心の中には彼との一夜が鮮明に刻まれていた。そして来年の居待月の夜、また彼と月を眺めることを心待ちにしていた。








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