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時雨の冷たい雨

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時雨の冷たい雨

東京の空は重く低く、時折のぞく街灯の光が濡れた舗道に反射していた。70歳の佐野隆司は、窓際に腰掛け、冷たい缶を握りしめたまま外を眺めている。ストロングチューハイ、最近の相棒だ。甘い香りと強いアルコールが、現実から一時的に逃避させてくれる唯一の手段だった。

「俺も、もう終わりかねえ。」

自嘲気味につぶやく声が静かな部屋に響く。かつては糖尿病を気にして炭酸飲料を避け、食事にも気を遣っていた自分が、こんなにも堕落するとは思いもしなかった。息子が精神病院に入院してからというもの、生活は音を立てて崩れていった。

朝起きてから何をするわけでもなく、ラジオをつけてぼんやりとニュースを聞く。昼になれば適当にインスタント食品を口に運び、午後はそのまま缶を開ける。そんな毎日が続いていた。

先月、ふとしたきっかけでラジオ体操の音声を流してみたことがある。久しぶりに体を動かすと、若いころを思い出して少しだけ気持ちが晴れた。しかし、それも2日しか続かなかった。「どうせ、何をしたって変わらないさ」という思いが、行動する気力を奪っていくのだ。

窓の外では、冷たい時雨が降り続けていた。頬を打つ雨の冷たさを思い出しながら、隆司は先日、傘も差さずに歩いた日のことを考える。その日は気温が8℃、湿度95%。まるで東京全体が冷たい毛布に包まれているようだった。冷え切った手を擦りながら、なんとなく公園のベンチに腰を下ろし、雨の音を聞いていた。

「あの日の空気は悪くなかったな…」

ぼんやりと浮かんだその感覚が、今の彼にとって唯一の救いだった。自分がどれだけ無力で孤独でも、季節の移ろいだけは確かに存在し、それを感じるゆとりがまだ残っている。それだけが、彼の中で唯一失われていない部分だった。

息子のことを考えると胸が痛む。彼が小さかったころ、よく一緒に雨の日に長靴を履いて散歩に出かけたものだ。水たまりで遊ぶ姿を見て、当時は面倒だと思うこともあったが、今となってはその記憶が愛おしい。

「どうしてこうなっちまったんだろうな、俺たち。」

缶を傾けると、最後の一口が喉を通っていった。空っぽの缶を握りしめながら、隆司は静かに目を閉じた。

その夜、彼は夢を見た。雨の降る道を歩く夢だ。息子が幼いころの姿で隣にいる。「父さん、あっちに虹があるよ!」と無邪気に笑いながら、手を引っ張って歩き出す息子。現実では叶わないその光景が、夢の中ではなぜか温かく、懐かしかった。

目が覚めたとき、まだ深夜だった。時計の針は午前3時を指している。外からは雨の音が聞こえる。

隆司は立ち上がり、カーテンを開けて窓の外を見た。街灯に照らされた雨が細かい糸のように降り注いでいる。胸の奥に何かが引っかかるような感覚がした。

「もう少し、頑張るか。」

何を頑張るのかはわからない。ただ、心の奥底で、まだ完全に終わったわけではないと感じたのだ。彼は冷蔵庫を開けた。冷たい缶が並ぶ中、いつものチューハイに手を伸ばしかけて止まる。そして、その隣に置いてあったペットボトルの水を手に取った。

飲み干した水が、久しぶりに身体を潤す感覚を与えてくれる。

翌朝、隆司は久しぶりに外に出た。降り続いていた雨は止み、街はどこか清々しい雰囲気に包まれている。散歩をするつもりで歩き出したが、自然と息子が入院している病院の方向へ足が向いていた。

「顔を見せに行っても、いいよな。」

今は何もかもがうまくいかない。それでも、少しずつ動き出すことが、唯一彼に残された選択肢なのだと感じていた。

冷たい雨が洗い流した街の空気が、彼の心を少しだけ軽くしてくれている気がした。









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